大森伊達家の成立と解体

伊達実元の婚姻と大森伊達家の成立

「福島市史 古代・中世 通史編」で小林清次は「晴宗公采地下賜録」に、稙宗が隠居した丸森、実元が住した大森の記載がないことから、晴宗期においても稙宗・実元は独自の領主権を持ったとしるす。
しかしながら、同じ「晴宗公采地下賜録」を典拠としながらも、丸森・大森の記載が欠けるのは、領地が伊達宗家の蔵入地であったからであるという解釈も存在する。

さて伊達実元の室は、兄である伊達晴宗の長女・鏡清院であるとされる(伊達家文書10-3290号)。この婚姻の意味を考えるため、実元の兄弟、および鏡清院の姉妹の婚姻状況を比較してみる。

黒嶋敏は、晴宗・輝宗の政治的志向の違いから、輝宗子女のうち洞中に嫁いだ鏡清院・益穂姫(小梁川盛宗室)は晴宗の意思によるもの、他家に嫁いだ妹たちの婚姻は輝宗の意思によるものとする(「はるかなる伊達晴宗--同時代史料と近世家譜の懸隔」青山史学)。

この二人の共通点は、夫妻の年齢差である。
小梁川盛宗 1523年生、 伊達実元 1527年生に対し、鏡清院・益穂姫は、晴宗の子女がすべて正室岩城氏所生であることを信じれば1545年から1547年の生まれである。(益穂姫は小梁川宗重の母とされているが、宗重自身が1545年生である)

実元の婚姻は永禄9年ごろとされる(「古城めぐり」大塚薬報)。これを信ずれば、実元は弟である鉄斎宗清・硯斎宗澄と同様、記載されるに値する室をそれまで持たなかったことになる。(鉄斎宗清は登米伊達氏の資料に、質は桑折氏であると記されるものの、伊達総家側の資料(伊達家文書10-3290号)に室の記載がない)

室町-戦国期の伊達家は分家の創出を控える傾向があり、11代持宗が小梁川家・懸田家を分出して以降、17代政宗が子息を分家させるまでの間、嫡男以外の男子は養子に行くか、部屋住となっている。
上杉氏へ養子に行くはずであった実元は、その経緯から伊達家に残ったあとも越後行のために付けられた衆を中心に、一定の寄騎=軍事力を保持していた。しかし晴宗は実元が伊達家に残っている限り、上記の慣習に従ったか実元に正式な婚姻をさせることはなかった。すなわち実元は寄騎こそ多いものの、部屋住として扱われたと考える。

それが変化を生じるのは輝宗の家督期である。
晴宗から輝宗への家督譲渡は順調にいったわけではなく、父子不和の中でおこなわれたことが伝えられる。

伊達実元は中通から米沢への交通の要所・大森の城主、小梁川盛宗は高畠の城主である。中野宗時が失脚した元亀の変では、小梁川盛宗は積極的な中野討伐行動をとらなかったとして輝宗の叱責を受け、伊達実元は伊達家復帰を願った中野に晴宗とともに頼られる立場となる。

この事象からは実元・盛宗が、前当主である晴宗とその執政である中野宗時とある程度親しかったことをうかがわせ、上記晴宗娘と実元・盛宗の婚姻は家中安定のために行われたことをうかがわせる。

実際、実元の活動の記録は婚姻後と思われる輝宗期に集中し、部屋住であった実元は鏡清院との婚姻を以て実質的に分家し「大森伊達家」がここに誕生したのである。

大森伊達家の解体

上記のようにして成立した大森伊達家は、天正13年の人取橋合戦時に80騎を率いて参戦する(伊達日記)。この数は渋川に半数、小浜に30騎を残したうえでの数であるので、成実の手勢は220騎。居城である大森と実元隠居城の八丁目に残った人数は不明であるが、小浜と同数の30騎が残ったとすると、合計280騎、軍団としては1000人余となろうか。

また一国の広い陸奥においては、大名の版図は一郡ないし半郡を支配する程度であるが、大森伊達家は天正14年に政宗が片倉小十郎に発給した知行判物にあるとおり「須川の南、成実近年抱え候ところ」とあるとおり、信夫郡のほぼ南半分を一円知行していた。また天正2年に実元が畠山氏から攻め取った八丁目城はそのまま大森伊達家の管理する出城となった。

このように広い版図と大勢の武力をもった大森伊達家は、伊達氏の中で最大の勢力となり、家中に重きをなすようになる。
しかしながら分家してまもない大森伊達家は、それゆえの弱体性を抱えてもいた。
分家からまもない大森伊達家は譜代の家臣を持たず、伊達宗家からつけられた寄騎で手勢が構成されていたのである。

例えば成実の家老として大河ドラマにも登場した羽田右馬助であるが、羽田家は実元が上杉氏に入嗣するさいにつけられた家柄である。しかしながら単純な大森伊達家の家臣ではなく、天正16年正月年賀日記によると成実とは別個に政宗の元に正月の年賀に赴いている。政宗・成実に両属していることが読み取れる。

成実の出奔時、政宗の家臣が高野山へ帰参を促しに行った記録や伝承はあるが、成実の家臣がこれを行った伝承はない。
また、この時、成実家中では羽田右馬助が孤立し、角田接収の際、羽田右馬助以外は伊達総家にそのまま帰属した。

すなわち成実家臣の多くは角田が接収された際、ごく自然に宗家直属の家臣としてスライドしたのであり、ここに大森伊達家は解体されたのである。

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