一、6日の晩、輝宗公政宗公の御陣屋へ御出、御台所へ家老衆召し寄せられ、義継御詫び言の様子御相談なされ候。我ら若輩に御座候えども、この使い我ら親仕り候につき、義継への御使い仕るべきよし、輝宗公仰せつけられ候。かようの大事の御使い如何のよし色々申し上げ候えども、しきりに御意に候間、是非に及ばす御意に任せ候。義継我らをもってあとあとの如く、南なりとも北なりとも一方を指し添えらる下さるようにと仰せられ候えども、罷りならず候につき、重ねて家中ともを本の知行高にて召し仕われくださるべく候。ただいままで奉公仕り候者を乞食に仕まつらせ候こと、不憫のよし仰せ上げられ候えども、それも罷りならず候間、ここもとへ伺候申し候上は、切腹を仕り候と覚悟仕り候。何分にも御意次第のよし、仰せ上げられ、相済み候。義継身上相済み忝く候間、御目見に仕りたしと仰せられ候間、そのとおい申し上げ候ところ、もっとも御会いなさるべきよし御意にて、義継我ら陣場へ7日の8つ時分御出、かれこれ時刻移り、蝋燭立て候て会い御申しなされ、宮森へ御帰り候。8日早天に義継より我らところへ御使いにあずかり、宮森に参るべく候。輝宗公御かせぎをもって相済み候。御礼をも申し上げたく候。また見舞も申したき所存数多候間、相済み罷り帰り、子どもを米沢へ登らせ候仕度も申したきよし、仰せられ候間、輝宗公御陣所へ参り候。伊達上野その他家老数多宮森へ参られ、二本松まで落居めでたきよし、輝宗公へ申し上げられ候。義継我らへ仰せられ候は、輝宗公へ参り忝き義申したきよしに候間、そのとおり申し上げ候ところに、早々御出候ようにと御意に候につき、義継輝宗公御陣所へ御出候。供の衆に高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務、三人御座敷へ召し出され候。和泉参り候時、義継へ耳づけに何をか申し候て、座敷になおり候。輝宗公御下に、上野も我らも居り申し候。何も御雑談もなく御立ち候。御門送りに御立ち候。内にて御礼なされ候。その左右には御内衆居り組み候ゆえ、捕え申す事もならず候や、表の庭まで御門送りに御出候に、両方竹から垣にて御脇を通るべき様もこれなく、つまり候所にて、御礼なされ候。義継手を地に突き、Page Top
「今度色々御馳走過分に候処に、我らを生害なさるべきよし、承り候」
よしにて、輝宗公の御胸の召物を左の手にて捕え、右にて脇差を御抜き候。かねて申合せ候や、義継供の衆近くに居り候者ども7-8人御後に回り、上野も我らも御先へは通らず、御後に居り申し候を、間を押し隔て、引立て候間、仕るべき様もこれなく、
「門を立て候え」
と呼び候えども、立会申さず候間、御跡をしたい参り候。小浜より出候衆は武具に早打ち仕り候。宮森より出候衆は、武具も着け合えず、多分素肌にてあきれたる体にて取り巻き申し、高田という所まで10里余参り候。政宗公は御鷹野へ御出なされ、聞し召され御帰り候。二本松衆、半沢源内、月剣持ち候。遊佐孫九郎弓を持ち候。そのほか抜刀にて輝宗公を取り籠め参り候。然る所に取り巻き参り候味方の内より、鉄砲一つ打ち候につき、誰下知ともなく総勢かかり、二本松衆50人余、一人も残さず打ち殺し候。輝宗公も御生害なされ候。政宗公もその夜は高田へ御出馬なされ候。家老衆、先ず小浜へ御引き返し、吉日をもって御責めしかるべきよし、仰せ上げらるにつき、9日未明に小浜へ御帰りなされ候。輝宗公御死骸、その夜小浜へ御供仕り、9日に長井資福寺へ送り奉り候。御葬礼のみぎり、遠藤山城・内馬場七右衛門、追腹仕り候。須田伯耆も100里隔て候在所にて追腹仕り候。8日晩、義継死骸、方々切り放し候を求め出し、藤をもってつらね、小浜町外に張付けに御かけ候。義継抱えの地、本宮・玉ノ井・渋川、8日の晩、二本松に引き除き、米沢へ人質なさるべきよし仰せられ候12に御成り候国王殿を申す子息を譜代衆守り立て、義継いとこ新城弾正と申すかねて覚えの者、主になり、籠城仕り候。