伊達安房屋敷の火災と肴町

寛永11年2月23日、成実が政宗を饗応した後、成実屋敷で火災が発生した。

「治家記録」にはこうある。
「今夜寅刻安房殿宅出火、家屋残らず焼亡し、肴町一町裏向類火す」

火災は仙台か若林か

ここで、「肴町」との記載があることから、仙台御譜代町の肴町の火災とする解釈があるようだ。実際、『源貞氏耳袋』第7巻には仙台肴町寛永11年2月大火の記事があるらしい。
肴町の北東にあたる現在の西公園には、かつて伊達安房屋敷があったことが仙台城下絵図で知られる。

しかし、各種資料はこの火災にあった成実屋敷は「若林」の屋敷であるとする。
曰く、

政宗記 成実所振舞申事
「政宗宮城の国分仙台近所に……(中略)……彼地若林と名付け……(中略)……是に依て、成実屋敷の作事も出て、三四度申請、……(中略、以下、火事の記事に続く)……」

木村宇衛右衛門覚書 120
「有年、伊達安房しけさね若はやしの屋敷新宅出来…………(中略)……しけさねのやしきのこらすならひの町二三町焼失なり……」

しかし、ここに「肴町」は出てこず、「治家記録」と矛盾が生じるのである。

ここでこの季節――旧暦2月におおよそ該当する、新暦3月の仙台の気候を調べてみる。
この季節、乾燥した北西風がよくふいている。
南東・南南東の風は天候悪化前で湿度が高い日にあたる(しかも風上は海)。火の気の少ないはずの場所から、あっという間の大火となると乾燥した北西風がふさわしく、そうすると若林成実屋敷→仙台肴町というルートでは燃え広がるとは思えない。
ウィキペディア「荒町」の項にいくつか仙台の大火の記載があるが、 火元と延焼がわかるものは、みな東~南へ燃え広がっている。
また、若林成実屋敷→仙台肴町で延焼したとすると、当然被害にあったと思われる他の御譜代町に当該火災の伝承はないようだ。
仮にこの火災を、西公園の仙台成実屋敷の火災とすると、肴町への類焼は自然であるが、成実や木村宇衛門が仙台と若林を取り違えるとも思えない。
若林城の取り立てによって、仙台城下は若林の方向へ拡張したが、藩の行政は「仙台」と「若林」と厳と区別している。
石母田文書の火事の定めに、 若林担当は仙台の火事に出動するな、とあり、同文書収載の「御触承知連名状」でも仙台屋敷の宿守が「若林に居り申し候」と答えていることから、若林を仙台のうちに含めることはないのだ。

では「治家記録」記載の「肴町」とはどこか。
若林の町名は、石母田家文書366に「若林霞の目町米町」、石母田家文書372に「若林大町」が確認できる。
同じ御譜代町の「大町」が若林にもあることから、「肴町」も若林にもあったのではなかろうか。

火災の原因

火災当日。
成実屋敷へ政宗の御成があったが、その席で不祥事があった。
宗檗という相伴坊主が、幼い兵部宗勝(政宗10男)の能を節操無く褒め、政宗の勘気をこうむったのである。政宗は宗檗を鞘がらみの刀で打ちすえ、流血の事態となった。
また、政宗は滞在中からしきりに火事の発生を恐れ、火の始末を厳しく申しつけた。

「400年記念誌」にこの火災を、政宗のこの火災への恐れは「めでたい席を血で汚したゆえに焼き清めよ」という謎かけであり、成実がこれに応えたものとする解釈がある。
出奔前後から続く政宗と成実の微妙な関係が影を落とした事件であるとする。

成実自身は「政宗記」に
「上台所と中台所の間へ、濡縁の下の芥どもへ、煙草の火こそ落ちたるらん、両台所へ自然と焼入……」
と記す。

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