鹿猟事

同(寛永)十三年丙子正月十九日に若林を立、三日路先の十五浜といふ島へ出給ひ、鹿猟をし給ふ。去程に、道中も爰彼処、様々の遊山のみにて通給へり、其頃南次郎吉・加藤十三郎といふ寵愛の小姓、彼等二人を始め、何れも小姓共へ宣ひけるは、「此行先の留りに、横川といふ舟着あり、小地なれども作事抔は、仙台もさのみ高下なく、北上川の湊にて、奥の都なり、若年の者どもに是を見せん」と宣ひ、軈て其夜の寓なり。爾るに、彼横川昔に違ひ、今又さびたること中々見間違ひ、横川と云へば社横川なれ、昔の形は少しもなし、政宗是を見給ひ、以の外気色かはりて、「いかなればヶ程には淋たるぞ、事の子細を申上よ」と宣ひ、役人名主に至るまで、緊く穿鑿腹立し給ひ翌日朝の狂歌に、

 堅ならば足袋や拾の緖にもせん何の役にも立ぬ横川

と詠み給ふ。其日に那振といふ島の仮屋へ著給ひ、翌日は休息、夫より山へ取付、日々の鹿猟也。去ば追留の山不思議なることには、朝巻籠たるにもみへざりける鹿三つ、追出て馳行、白きこと誠に驄に加へ、政宗彼鹿を見玉ひ、扨も珍敷事哉、手柄次第に虜れと宣ふ。いかにもしてこれを虜り、目に立んと諸人進みけれども、二つは洩て、今一つも洩るけしきなるを、自身打留給ふことも、怪きことの瑞相にも是有り哉、惣じて山中にて宣ひけるが、彼島へ出ること此限りとの心にて、名残なりと度々宣ひけるが、彼島より立給ふ宵は、雨降て一日逗留、其明日の認めいつよりも早く過、其上の咄に、何れも能承れ、皆人々は最期の辞世とて歌を詠じ侍る、予が年形如くなれば、此島へ出ること是限ならん、名残のために一首連んとて、

 曇なき心の月を先達て浮世の闇を晴てこそ行

と詠じ那振を立給ひけるが、其身逝去なれば、右歌の辞世と成けることは哀れなりしことどもなり。

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