今度大崎との戦に、伊達の勢無手際なるは、黒川月舟逆心の故也。政宗重ねては先、月舟居城の黒川を押倒し、其れより大崎をと思はれけれども、大崎と取組玉へば、如跡佐竹・会津・岩城・白川、各本官へ打出て働き給ふべきことを気遣ひ、其年は先延引にて御坐す。尓る処に翌年又仙道の軍再乱して、政宗方勝利を得られ、剰へ会津迄手に入、一両年の間在城となる。去程に今より後は関東へと志し、大崎の事をば詞にも出し給はず。尓るに太閤秀吉公小田原御発向に付て、会津をば召上米沢へ本領し給ひ、偖て大崎葛西をば木村伊勢守拝領にて、政宗へは名取・国分・宮城・黒川切に下されければ、月舟は聟の上 野処へ蒐入
「身命計りを助け下され候へ」
と申す。其こと政宗へ上野申上けるは、大崎にて思ひの外諸軍討死なるは月舟逆心故なり、其供養に月舟首を刎んと宣ひ、秋保へ遣はし、境野玄蕃にあつけ給へり。是に仍て上野、米沢へ相詰、
「右大崎にて浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡、我等の身命恙もなく退きけることは月丹心操なり、尓りと雖ども是を申し立つるには非ず、偖親分に候程に、其所領を一宇差上奉公に及び、只報恩に月舟身命助け下され侯らはん」
と、百度の歎に仍て、伯父の訴訟と云へば、是非なく承引し給ふ。上野、月舟を玄蕃の手前より請取、宮城の居城利府へ帰り、悦こぶこと尋常ならず。尓して上野申し立られける所領も、召上給はず首尾能相済、後には上野方への志とて、少分ながら月舟へも堪忍分を給はり、其後仙台在城となりては居敷を玉はり折節は政宗へも呼ばれけり。是偏へに上野への首尾とぞ聞ける。尓るに月舟伯父八森相模、右大崎桑折の城にて、月舟へ已に強き諌のこと、其上政宗差給ふ小旗の紋を、其身の紋になしければ、旁心に深くかゝり、小国へ遣はし上郡山式部に預け、後には妻子ともに死罪に行はれ候事。
寛永十九年壬午止六月吉日 伊達安房成実
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