最上より大崎へ使者の事

 

最上義顕より野辺沢能登と云臣下を、大崎の蟻ケ袋へつかはし給ひ、月鑑に対面して何と語りけるやらん、月鑑をば本の深谷へ相帰し、安芸一人能登同心して、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門と云両人に渡しける。其夜に又能登、安芸宿へ来て
「御辺を是へ相具しけること別に非ず佐竹・会津・岩城方々へ、義顕申組て已に伊達へ軍をせんと云謀あり、故に相馬義胤も一同有べき為に、芋窪又右衛門と云ける者出羽へ遣はし、其上言合せ玉ふ。只御辺も一門中へ内通して、伊達への謀反ならば御身の上、悪かるべきや」
と云。安芸
「主君へ奉公のために、二つなき命を擲ち、籠城の軍兵ども出しける其功をば、いかで二度取返し候べき、疾々首を刎らるべし」
と申す。
「あはれ武士には無比類言かな」
と能登褒美の由なり。さる程に、安芸此趣を政宗に告げ参らせんとて、斎藤孫右衛門と云ふ者を米沢へ忍びの使を差上、右の子細を申しけり。斯波て義顕は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。尓りといへども我家の大身を多く滅し、或は御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。されば政宗四本ノ松・二本松を取給ふに仍て、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川、各伊達へ敵対し給ふ故に、義顕近所と云ひ互に時を見合せ、右の大将へ一和ありて、伊達へ戦、在城の米沢を日来のぞみ給ふ処に、況や今度大崎にて伊達の勢とも利なくして、人質の泉田安芸を、義隆より最上へ遣はし給へば、尚も政宗へ手切の為に、米沢と最上の境に、鮎具藤太郎と云し者居たりけるを、義顕語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々
「義顕の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひ尓へし」
と申す。
「各申処は埋りなれども、打延けること如何」
の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。尓る処に鮎具、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及び、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて侯事。



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