大崎陣之事

 

同十四年七月、政宗仙道の軍募りて四本松二本松迄で手に入玉ひ、八月始めに米沢に帰陣し給ふ。然る処に大崎義隆の家中二つに分り政宗へ申寄、其根本を如何にと申すに、其頃義隆へ拒障上の新田刑部と云、双ひなき義隆崇敬の者あり。尓るに彼者いか成虚言もありけるやらん、義隆前跡のやうにもなく、其後又伊揚惣八郎といへし者近く使ひ給ふ。故に刑部驚怖を銜み、親類多き者なれば、其者ども一同してさたなしけるを、惣八郎見合大事とや思けん、岩手の城主氏家弾正と云けん者、末の頼みになさんとて、弾正方へ其旨頼みければ、引立侯べきとて誓詞を以て約束なり。刑部親類是を聞て、弾正取持程ならば、刑部一党悪むべしとや思けん、其頃大崎・伊達の境論にて、義隆と政宗中不和なりけるを、刑部一党是を悦び、
「伊達より加勢を下され弾正一党惣八郎と共に討果たし、義隆へも自害をさせ、大崎中をばたやすく御手に入ん」
と申す。政宗「一左右次第に人数を遣すべし」
と宣ふ。尓りと雖も刑部其頃迄、義隆へ付参らせ玉造の名生の城に相詰けり。されば義隆へ弾正申けるは、
「刑部一党政宗へ忠を入れ、逆心して既御滅亡の禍ひなり、去程に刑部をば誅罰あるべく侯や、不尓ば牢舎には如何あらん」
と申す。義隆中処は、
「去る事なれども、幼少の者より召使ひ、又死罪牢舎は不便なり、只其身の在所新田へ遣はすべし」
と宣ふ、様々に諌めけれども其甲斐なし。斯て義隆刑部を召して、
「其身一党逆意を企ち口惜けれども、幼少より召使ける其賞に死罪を思ひとゞまり候ぬ、今より在所新田へゆけ」
と宣ふ。刑部
「仰せは尽し難けれども、御暇を給はり御本丸を退きなば、心に掛り侯とて傍輩どもに、即時に討れ候べし、恐れ多き申ことには侯へども、只今迄の報恩に、中途迄召連下されなば、有難く覚へ侯べし」
と申ければ、不便の由宣ひ大崎の内伏見と云処迄送り給ふ。尓るに刑部究竟の郎等ども二三十人、刑部には付ずして義隆を、前後左右に打囲て参りけるを、義隆
「供の者ども無用」
と申せば、早事を出すべき風情にて、漸伏見へ送り玉ひ、
「是よりゆけ」との宣へば、刑部は
「其身計り参るべき体なれども、郎等ども迚も新田迄召連下さるべし」
と申す、供の衆如何あらんと申しければ、義隆を討果さんとす、故に思ひも寄ず新田へ送り、在城名生へも送らずして新田に止置侯なり。去程に刑部親類、狼塚の城主里見紀伊守、谷地森の城主主膳、宮沢の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正、百々の城主左京亮、八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部、中の目兵庫、飯川大隅、黒沢治部、是は義隆の子舅なり、如斯の歴々の者共、右には政宗へ申寄、御威勢にて氏家一党惣八郎と共に討果し、義隆へも自害を成せ参らせんと企ちけれども、思の外義隆を生捕本の心を今又引替、伊達を相捨義隆を守立て、氏家と惣八郎を退治せんとの評定にて、帰忠の面々共義隆へ申しけるは、
「刑部親類申合せ、取立申す程ならば、累代の主君と申し誰か疎に思ひ奉るべき、只弾正一人と思ひ詰、巳に二世の供迄約束なりしを、今に到りて退治とは面目なきとは思ひけれども、新田に押止訴訟なれば、流石力及ばず尤なりと同じける」

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