大越退治訴訟之事

去程に。月斎・梅雪・右衛門・刑部、又宮森へ来て原田休雪・伊東肥前・片倉景綱を以て申けるは、
「大越紀伊守始より三春に出仕もなく、今度義胤三春を取んとし給ふ術も、彼者一人の謀反に仍て、未居城に引込ける、是を御退治なくては田村の御仕置如何有ん」
と申す。政宗
「紀伊守試案是非無きことなり。然りと雖も望みの如く今は成らざる子細あり。近頃佐竹より安積表へ出られける由、其聞へあり。然るに大越へ押寄、若や彼地にて手間を取、其内義重出陣ならば、城を巻ほごし安積表へ向はんこと、敵の思も如何なてば、爰を以て遠慮」
と宣ふ。重て四人衆
「其義ならば、御近陣をば有らずといえども、一篇の御働きをば、是非」
と申す。
「されば今度は代官にて働くべし」
と宣ひ、其時成実は本宮に在陣成りしを、宮森へ召給ひ、
「田村四人の者共、此の如き訴訟なれども、右の遠慮なれば、大越へは其身参れ」
と宣ふ。成実申しけるは、
「義重出陣のこと安積にては、其沙汰もなし、扨其義は何方より聞召給ふぞ」
と申ければ、目前の人を除けられ、密に
「須賀川の須田美濃守知せなり」
と宣ふ。
「是は案の外なる御事なり。美濃は佐竹へ無二奉公とこそ承る、今又此方へ左も有ることは悦なり」
と申ければ、政宗
「されば美濃方へ両度人を遣はしければ、始の使は気遣なりとて、重ても重ても用所あらば、此筋にて承れと申すとき、義重出陣をも申し遣はす、又其節石川大和昭光より、八代といふ山伏を飛脚に越けるには其沙汰もなし、彼山伏に尋ねければ、出陣必の様に唱ひける由申す」
と宣ふ。去程に、二本松に罷かへり、両日支度をなし田村の船引と云処へ打出、其より大越へ働きければ、請持をば引込、二三の曲輪を如何にもかたくふまひける故、仕懸べき行もなく、其日は引上けるなり。かかりけるに、政宗もかくれ給ひ忍の出陣なりしに、小埜と鹿股の人数は東より働き、伊達の勢は北より働き引上けるに、後人の鹿股衆へ敵出向ひ合戦に取組、鉄砲頻りに聞へければ、政宗を始め惣じて人数も取て返し、敵陣を押切方々へ追散し、頸30余討取物別れして、御身も翌日宮森へかへり給ひ、同勢をも相返し給ふ事。

寛永13年丙子6月吉日   伊達安房成実

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