一 天正14年、二本松・塩松家中御弓矢落居の上、8月米沢へ御納馬なされ候ところ、大崎義隆家中、二つに割れ候いて、政宗公へ申し寄せ候根本は、その頃義隆に奉公の小姓・新井田刑部と申す者、ことのほか出頭し候。しかるところに、いかようの表裏も候や、もともとの様にあい使われず、またあい隔てらる儀もこれなく候。その後、伊場野惣八郎と申す者、近く召し使われ候につき、刑部きうふ(恐怖?)を持ち、親類多き者ゆえ、その一類いずれもきうふ(恐怖?)つかまつり候。しかる間、惣八郎存じ候は、
「我らは一人者に候あいだ、頼るところこれ無く、試案候て、岩出山の城主・氏家弾正と申す者を、力につかまつりたき」
よし存じ、弾正ところへ存分の通り頼り申さえば、弾正合点つかまつり、以後あい心得候よし、誓約いたし候。これによりて、新井田刑部親類の者ども存じ候は
「弾正取り持ちをもって、必ず迷惑つかまつるべく候。されば大崎・伊達境論にて、今ほど御間しかる無く候条、政宗公へ申し寄せ、御加勢を申し請け、弾正一党・惣八郎打ち果たし、義隆へも腹を切らせもうすべき」
ところ存じ候て、そのよし政宗公へ申し上げ候えば、御合点なされ、何時なりとも申し上げ次第、御人数遣わさるべく候よし、仰せ合わされ候。その頃まで義隆に奉公つかまつり、名生の城にまかりあり候。しかるところに氏家、義隆へ御異見申し候は、
「刑部一類の者、逆意を企て、政宗公へ申し寄せ候間、刑部切腹仰せつけられ候や。籠舎なられしかるべき」
よし申し上げ候。義隆仰せられ候は、
「その身一類ども逆意を企て候間、それまで口惜しく思し召され候。内々切腹仰せつけらるべく候えども、幼より召し使い候間、あい助けられ候。新井田へ早々まかり越すべき」
よし仰せつけられ候。刑部申し上げ候は
「御意はかたじけなく候えども、傍輩の者ども、残らずそれがしを憎み申し候間、御本丸をまかり出で候はば、御意に懸る者のよし申し候て、すなわち討たれ申すべく候間、はばかり多く申すことに候えども、ただ今まで召し使われ候御芳恩に、御前様中途まで召し連れられ下され候はば、かたじけなく存じ奉るべき」
よし申し上げ候につき、義隆もっともに思し召し、左様に候はば、伏見まで召し連れ、あい放せられ候間、御供つかまつり候えとて、馬2匹庭へ引き出され候。1匹は義隆、1匹は刑部を御乗せ召し連れられ候。刑部をば差し置き、義隆の御馬の口を取り、御跡先につき御供の衆無用のよし申し候えば、はや事を仕出し、左右に見候間、伏見まで起こし、はや
「これより新井田へ参り候え」
と仰せられ候えば、刑部は
「一人も参るべしと存じ候ところ、家中の者どもぜひ新井田まで、召し連れられ下さるべく候」
よし申し候。義隆
「別儀あるまじき」
よし仰せられ候えども、
「ぜひ御供つかまつるべき」
よし申し候て異議を申し、御供衆もこれなく候はば、義隆をも討ち奉るべき景気に候間、是非に及ばず新井田までお越し候ところ、名生へも返し申さず、新井田に留め置き候。刑部一党の者ども、狼塚の城主里見紀伊守・谷地森城主八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・高清水城主石川越前・宮崎城主葛岡太郎左衛門・百々城主百々左京助・中野目兵庫・飯川大隅・黒沢治部ーーこれは義隆小舅にて候ーーこの者ども各逆心を企て、政宗公を頼み入り、御威勢をもって氏家一党・伊場野惣八郎打ち果たし、義隆にも腹切らせ申すべく所存にて候ところ、存のほかに義隆も生け捕り、新田に差し置くあいだ、いずれも心変り、伊達をあい捨て義隆を守り立て、氏家弾正・伊場野惣八郎を退治つかまつるべき存分でき候て、かの面々義隆へ申し上げ候は
「刑部一類あまた申しあわせ、義隆を取り立てて申すは、累代の主君と申し、誰か疎意を存ずべきや。氏家弾正一人御退治なされ候えば、大崎中は思し召すごとくなるべき」
よし訴訟申し上げ候。義隆御所存には、かの者ども逆意を企て伊達を頼み入るのよし聞こし召し、時分は、氏家弾正一人御奉公と存じより、御腹の御供つかまつるべきよし申し上げ候。弾正を御退治なされるべき議にてこれなく思し召し候えども、新井田に押し留め訴訟申し候あいだ、力及ばず
「もっともに候」
よし仰せられ候。