一、最上義顕公は……

一、最上義顕公は、政宗公の伯父にてござ候えども、輝宗公御代もたびたび御弓矢に候。しかれども近年は、別して御ねんごろに候。さりながら義顕公は、家々足下兄弟まで両人切腹いたしめたる、大事の人にて、油断なされず候。政宗公、二本松・塩松の御弓矢強く候て、佐竹・会津・岩城・石川・白川まで、御敵に候ゆえ、右の諸大将仰せ合わされ、今度伊達へ弓矢をなされ、長井を御取りこれあるべく思し召され候ところ、結句大崎において伊達衆討ち負け、所勢の人質として、泉田安芸最上へ相渡さるべきにて、このみぎり米沢の事切れと思し召され、最上境に鮎貝藤太郎と申す者申し合わされ、天正15年3月13日、鮎貝藤太郎手切れつかまつり候。政宗公聞こし召し、時刻移り候はばなるまじく候條、即ち御退治なさるべきよし仰せ出され候。家老の衆申し上げ候は、
「最上より御加勢これあるべく候。その上、またも最上へ申し寄る衆これあるべく候間、様子御覧合わされ、御出馬しかるべき」
よし申し上げ候ところに、
「もっとも申す品よんどころなく候えども、左様に候はば米沢を出候ことなるまじく候間、この節鮎貝において是非を相付けらるべき」
よし御意にて、即ち出なされ候ところ、最上より一人一騎も御助けこれ無きゆえ、藤太郎しきりに
「御人数遣わさるるように」
と最上へ申され候えども、遣わされず候。その上政宗公米沢を御出のよし、藤太郎承られ、即ち最上へ引き除くゆえ、長井中子細なく候。

「成実記 目次」

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