一、黒川月舟逆心つかまつるゆえ、大崎の御弓矢思し召し候ところ、思し召すようにこれなきにつき、内々月舟退治なさるべきよし思し召し候えども、佐竹・会津・岩城・石川に打ち出で、本宮まで相働かれ候間、大崎御弓矢取り組まれ候はば、また右の各御出でなさるべきよし思し召され、相控えられ候。その翌年大内備前苗代田の百姓寄せ居り候を、打ち散じ事切れをつかまつり候につき、仙道の弓矢再乱にて会津まで御手に属され、関東の御弓矢と思し召され、大崎の事は御言にも御出でられず候。しかるところ秀吉公小田原御発向にて、会津まで召し上げられ候。大崎・葛西、木村伊勢守拝領申され候てまかり下り候條、伊達上野は月舟の婿にござ候間、懸け入り身命ばかりを相助けられ候ようにと、御訴訟申し上げ候につき、上野より政宗公へこのよしを披露申され候へば、御意には、
「大崎弓矢の時分は、月舟逆心つかまつり、数輩軍勢討死つかまつり候間、是非月舟首を召し上げられ候。早々上げ置き申すべき」
よし仰せつけられ候。上野種々御訴訟申され候えどもまかりならず、秋保の境野玄蕃に仰せつけられ相渡され候。上野、米沢へ参り、
「大崎御弓矢の時分、月舟恩賞をもって、浜田伊豆・舘(田手)助三郎・宮内因幡・我ら身命つつがなくあい除け候。それはただいま申し立てるところにもこれなく候。月舟ことはご存じのごとく、私親分に候間、我ら知行一宇差し上げ申すべく候。月舟身命の儀、相助けられ下さる候ように」
としきりに御訴訟申され候につき、御意には、月舟ことはひとえに口惜しく思し召し候えども、上野に身命相助けられ下さる候よし、仰せ出され候。上野、玄蕃手前より月舟を受け取り、利府へまかり帰られ、満足尋常ならず候。その後月舟は御訴訟申し少し堪忍分下され、仙台に屋敷拝領いたし、御前へも折々まかり出で候。八森相模、桑折にて月舟へ強く異見申すこと御耳に立ち、その上政宗公の御差小旗の御紋を、その身の小旗に紋につかまつり候こと、なにかく口惜しく思し召され、妻子ともに小国へ差し越され、上郡山民部に相預けられ、相模を始めとし妻子まで死罪に行かれ候。