一、天正15年、最上・大崎は御弓矢に候えども……

一、天正15年、最上・大崎は御弓矢に候えども、安積表はまず御無事の分にて、何事もこれなく候。苗代田・大田・荒井3ヶ所は、我ら知行候。敵地近く候えども、御無事に候間、いずれも百姓どもを返し在付き候。苗代田は、阿児賀島(安子ヶ島)・高玉敵地にて、近所に候間、古城へ百姓ども集め差し置き候て、田地つかまつり候。大内備前、我らところへ申され候は
「不慮の儀をもって政宗公御意に背き、このごときの身の上にまかりなり候。小浜まかり除き候時分、会津二人の宿老衆、異見申され候は、なにとも塩松の抱えなりがたく候。そのゆえは、政宗公岩角の地を召し回られ、地形を御覧なされ候よし承り候。定めて御責めなるか、近陣なるべきか、思し召し候とあい見え候。左様に候はば、近陣にても、はやはや二本松への通路なりがたく候。もっとも左様に候ては、小浜を引き退き候事もなるまじく候間、会津の宿老松本図書助跡絶え候間、この知行明け地に候條、下さり候様に申し候て、会津の宿老つかまつるべきよし申されまかり越し候ところ、知行の事は申すに及ばず、御扶持方なりとも下されず、餓死に及ぶ体に御座候間、政宗公御下へふと伺候いたし、度々少々御知行をも下され召し使われ候様に我ら(成実)を頼み入り申したく候。さりながら御意に背き、かように申し上げ候ても、御耳にも入るまじく存じ候間、我ら弟・片平助右衛門、ご奉公つかまつり候様に申すべく候間、それをもって我ら御赦免なさり候様に」
と、申され候につき、片倉小十郎をもって、拙者申し上げ候は
「大内備前儀、召し使われしかるべく候。その子細は、清顕公御遠行以来、田村は主無く候間、内々区々の様に承り及び候。備前本意をつかまつりたきよし、存じ候て、弓矢の物主にもまかりなり候えば、如何に存じ候。その上片平の地は、高玉・安子ヶ島よりは南にて御座候間、片平助右衛門ご奉公においては、右の両地は持ちかね、会津へ引き申すべく候。左候えば、高倉・福島・郡山はご奉公の儀に候間、御弓矢なさるに、御勝手一段よく御座候間、備前召し出されしかるべき」
よし、申し上げ候につき、御意には、大内口惜しく思し召し候えども、去々年輝宗公御果てなされ候みぎり、佐竹・会津・岩城、御相談をもって本宮へ御働き候。この御意の趣、御無念に思し召し候間、御再乱なさるべく思し召し候條、もっとも片平ご奉公においては、備前事は御赦免なさるべく候條、つぶさに申し合いなすべくよし御意に候間、右使いつかまつり候者をもって、備前へ追々品々申し越すべく候間、申し遣わし候條、申し越し候かようの儀を、白石若狭へ知らせず申し候ては、以来恨みを受け候儀、如何に存じ候て、若狭へ物語申し候へば、若狭申され候は、
「一段しかるべく候。塩松百姓、備前譜代に候間、万事気遣い申し候ところ、御下へ参られ候へば、大慶」
のよし申し候間、我らもさように存じ候。米沢へ申し上げ候よし話し申し候。しかるところに備前より申し候は、
「かの一儀漏らし候こと、迷惑に候。ただいま会津において御隠れなく申し回り候。この分に候はば、切腹つかまつり候儀も計りがたく候」
よし申し越され候。拙者挨拶申すは
「別して他言つかまつり申さず候。白石若狭ただいま小浜に居られ候。其の方ご奉公の品、かの方へ申さず旨は、取りなるもならず候間、若狭に物語申し候。若狭そこ元へも知らせ申し候か」
と存じ候よし申し越し候。その後若狭我らに申され候は、備前我らを頼みまかり出たきよし、若狭物語に候。一段しかるべく候。誰をもってもまかり出候えば、御為にしかるべくよし挨拶申し候。若狭分別には、備前は覚えの者に候。田村間近く候間、数年、佐竹・会津御加勢なく、自分に弓矢を取り候て、度々合戦にも勝ち候事、政宗公もご存じ候間、若狭塩松を返し下さる儀、計りがたく候間、若狭指南をもってご奉公を申し候か、さようにこれなく候はば、会津において切腹申さるようにと、存じ詰め申され候と見え候。それゆえ去年中は、大内まかり出候事あい止め候。その年の押し詰めに、備前気遣いつかまつり、会津をお暇、片平へまかりこされ候

「成実記 目次」

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