一、天正16年2月12-3日ごろ、我ら抱えの地・玉井と申すところへ、高玉より山際につきて西原と申し候て、4-5里玉井より隔て候ところへ、真草を越し候て、玉井の者ども、兵義無く遠く追い候て、まかり出で候を、見申し候て、押し切りを打って取り申しべく、巧みをつかまつり、3月23日に玉井近所へ、高玉への山径ござ候、矢沢と申すところへ、草をつかまつるべきよし相談に候。そのみぎりまでは備前・助右衛門もご奉公にはきまり候えども、味方への事切れは申されず候時に候間、片平・安子ヶ島の人数、高玉へ22日の晩にあい詰め候。かねて敵地に申し合わせ候て、草入れ候はば、告げ申すべきよし差し置き候は、22日の晩に本宮へ参り候て、今夜玉井へ草入れ申すよし告げ候につき、我らもまかり出で、本宮・玉井の人数をもって、23日の朝さからを申し候ところ、草も参らず候て、
「偽を申し候か」
と申し、引き籠め候ところ、昼間2ー30人玉井近所まで参り候間、出合いて2-30人引き上げ候間、たいはたと申すところにて追いつき、合戦つかまつり候。前の日遠出候を見申し候て、矢沢にて人数200ほど隠し置き、押し切りにあくたい申し候。合戦始まり候ところより引き還り申すべく存じ候て、敵そろそろと除口になり候。玉井の者どものあくとあしきよし存じ候て、強いて還り候間、敵崩れ候て、足並みを出で除け候。押し切りの者ども待ちかね申し候て、早く出で候ゆえ、押し切られず候えども、味方崩れ、合戦始まり候川端まで押し付けられ、2-3人討たれ候。味方河にてあい返し候ところに、高玉太郎左衛門敵味方の間、馬を横に乗り候ところを、志賀山三郎と申す者、我ら歩小姓、かねて鉄砲を克ちうち申し候者、川柳に鉄砲うちかけあい待ち候ところへ、太郎左衛門小川一つを隔て候て、横に馬を乗り返し候ところを二つ玉にて打ち候間、一玉は即ち肩のもみ合いにあたり、一玉は太郎左衛門臑にあたり、即ち馬を乗り返し候きほいに取ってかけ候間、敵も引き除け候間、敵も崩れ申さず、小坂を乗り上げ候ところを、また山三郎上矢に鞍の後輪を打ちかき、二つ玉にては、のこ所を打ち出で候。主膳うつむきになり、その身の小旗を抜き、弟・采女にささせ、
「我ら除け候はば、必ず崩れるべく候間、その身主膳になりかわり、しんがりつかまつり、相違なく武別れさせ候へ」
と、申しつけ、引き除けに頓して死去申し候。その草調儀は、高玉太郎左衛門・太田主膳両人武主にて候草にて候間、両人引き除け候と、即ち崩れ候。追い討ちにつかまつる首、153討ち取り申し候。大勢討ち申すべく候えども、山あいにて地形悪しく候。散々に逃げ候ゆえ、少し討ち候。その夜は宿へまかり帰らぬ候者どもこれありのよし、後に承り候。右の首ども、鼻をかき塩漬けにて、米沢へ上げ申し候。