一、 天正16年2月12日……

一、 天正16年2月12日、片平・安子ヶ島・高玉、3ヶ所の人数をもって、大内備前、苗代田へ未明に押しかけ、古城に居り候百姓ども100人ばかりあい果て、本内主水と申す者を物主に差し置き候を、切腹いたさしめ、放火再乱申され候間、太田・荒井の者どもも、また玉井へ引き籠もり候。同2月末、大内備前我らところへ申され候は、
「去年の申し合わせ露見し、切腹に及ぶべこ体に候間、迷惑に存じ候て、会津への申しわけに御領地へ事切れつかまつり候。この上にも御免においては、米沢へご奉公つかまつるべく候間、とりなしくれ候え」
と度々申され候えども、我ら挨拶申し候は、
「いずかたへも事切れ申さず、我ら知行ところへ事切れ申され、本内主水切腹つかまつり候間、我ら申し継ぎはまかりなるまじく候。誰ぞ頼み申されしかるべき」
よし、申し候えば、右よりの使い、本内主水親類の者つかまつり候。かのよしみども、いずれも玉井に差し置き、境目に候。かの者、我らところへ訴訟申し候は、
「玉井の百姓ども、二本松右京殿譜代に候間、草を入れ候にも告げ申すべきかと、気遣い申し候。その上片平助右衛門ご奉公申され候えば、ひとかどの事に候。安子ヶ島・高玉持ちかね申すべく候間、備前兄弟馳走申ししかるべき」
よし、申し候につき、重ねて米沢へ小十郎をもって申し上げ候ところ、御意には、
「苗代田打散候事は口惜しく思し召し候えども、片平助右衛門までご奉公つかまつるべきよし申し候間、召し出されるべし。もし助右衛門ご奉公つかまつらず候はば、大内ばかりは召し出さるまじく候」
よし、御意候條、そのとおり申し遣わし候ところに、助右衛門ご奉公落居候間、近村4-5ヶ所望み書き立て越し申され候間、米沢へ申し上げ候えば、備前には保原を下され、助右衛門へは望み候ところへ御印判下され、小十郎越し申され候間、その後助右衛門申され候は、
「瀬上丹後、御勘当に候えども、我ら婿にいたし、名代を渡し申され候よし、約束つかまつり候條、御赦免なされ候」
こと、申され候。そのとおり申し上げ候えば、御意候には、
「中野常陸親類まで口惜しく思し召され候間、召し出さるまじく候」
よし、仰せられ候。そのとおり申し越し候えば、助右衛門申さる事には、
「さように候はば、ご奉公つかまつるまじく候。御印判いただき候も、上げ置き申すべき」
よし、申され候につき、20日ばかりも事延び、ようよう瀬上丹後こと御前あい済み、小十郎も二本松へまかり帰り、備前・助右衛門まかり出で候をあい待つべく、我らと申し合わせ候。

「成実記 目次」

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