一、石川弾正4月15日時分に、白石若狭抱えに候と申す城は、草を入れ、その身もまかり出で、しこみに居り、朝早に内より一両人まかり出で候間を草にて討たれ、城中よりも出で合い候ところに、弾正助け合い、内より出で候衆を追い入れ、城へ取り付き、責め候。鉄砲頻りに聞こえ候間、白石若狭助け合い候を弾正見合い、引き除け候を懸かり付け合戦候て、若狭勝ちを得候。首20ばかり討ち取り申し候。我らも二本松にて鉄砲を承り、早速打ち申し候えども、遠路ゆえ遅日候て、若狭帰り候ところへ翔けつけ候。若狭悦にて宮森へ我らを寄せ、ことのほか馳走にて帰り候。弾正と申す者は、もと塩松の主・久吉と申し候、大衆候家中にて候。備前と傍輩に候。久吉沙汰しかる無く候につき、家中の者ども相談をもって押し出し候。備前親その頃伊達を頼み入り候。弾正親は田村清顕公を頼み入り候。それ以後伊達弓矢御調え候みぎり、備前も清顕公を頼み入り、御近所に居られ候間、すなわち御奉公つかまつり候ところ、片平助右衛門家中も、田村右馬頭家中岩城との弓矢の時分、野陣において喧嘩ござ候。右馬頭家中を御成敗なさるように、と申し上げられ候えども、御合点なきにつき、御恨みに存ぜられ、翌年より会津・佐竹を頼み入り、数年田村へ弓矢つかまつり候。石川弾正は相変わらず田村へ御奉公つかまつり候。さように候えども、政宗公塩松を御取りなされ候。弾正知行は塩松の内に候。田村方へ御名代政宗公相渡される御子候はば、田村へ越し御申しなされ候ようにとの御約束に候間、弾正も知行付け候政宗公へ御奉公つかまつるようにと、清顕公御意をもって伊達へ相付けたる者に候。その他にも、守屋山城・大内能登を始めとして4-5人旧塩松の者に候。久吉家中を引き除き、田村へ御奉公つかまつり候者は、いずれも伊達へ相付けられ候。その者どもは、白石若狭給主に相付けられ、石川弾正一人直に召し使われ候。本領とも前の如くに返し下され候。