一、天正14年霜月。清顕公御遠行以来

一、天正14年霜月。清顕公御遠行以来、三春の本城には、御北様御座なされ、御女儀持ちに候。さりながら、万事差し引き田村月斎・田村梅雪・田村右衛門・橋本刑部、この4人に候。その頃政宗公御夫婦中しかるなく候。内々御北様御怨みに思し召し候。月斎・刑部は、たとい御夫婦中しかるなく候とも、政宗公を頼み入らず候ては、田村の抱えなるまじきよし分別に候。梅雪・右衛門は、御北様は相馬義胤の伯母に候。御女儀なりとも押し立て、相馬を頼み入り、政宗公へ違へ申すとて田村は苦しからぬよし分別申し上げらる上は、伊達を頼み入り候様にて、底意は相馬へ申し寄られ候向きにもこれあることに候。その手寄へ月斎方梅雪方と底意は二つに分かれ上はおしなべて、伊達へ御奉公と申す様に候。然るところに大越紀伊守と申す者、田村一家にて相馬義胤には従弟にて候、田村二番の身代に候。この者相馬へ申し合わせ、内々のからくりつかまつり候。そのほかにも田村中に相馬の牢人、城を持ち候ほどの者4-5人もござ候間、皆々相馬の方に候。一番の大身は、梅雪の子息・田村右馬頭と申す小野城主に候。この両人相馬へ申し合わされ候。あるとき月斎・刑部、白石若狭に物語申され候は、
「大越紀伊守へ申し合わせ、逆心歴然に候間、紀伊守を相抱えたき」
よし申され候。その通り米沢へ申され候。しかるところに政宗公より我ら所へ御状下され御用候間、使いを一人差し上げるべきよし仰せ下され候間、即ち上げ申し候ところ、御意には、大越紀伊守相抱えたきよし、月斎・刑部申し上げ候。無用のよし御意なされ候えども、もし相抱えられず候はば、田村の急事になるべきよしに思し召しに候。月斎方つのり候事も如何に候。田村は二頭を引き立て候様に思し召し候て、御持ちなさるべく候よし思し召し候。左候えば、
「紀伊は其方を以て御奉公立ちを申し上げ候間、油断申さぬ様知らせ候てしかるべき」
よし、仰せ下され候間、かねて我ら家中門崎左馬と申す者、紀伊に久しく懇切に候。紀伊より使にて大越備前と申す者、前度右馬頭ところへ参り候條状を越し、少し用事ござ候間、備前を差し越されるべく候よし、申し遣わし候。即ち備前参り候間、我ら田村の様子相尋ね、腹蔵なく物語候はば、政宗公仰せ越され候とおり申すべく理存じ、備前に会い候て田村の様子相尋ね候えども、一円相包み候て申さず候條、大事の儀を直に申すこと気遣いに存じ候て、右馬にその物語いたさせ候。備前帰り、それより紀伊、三春への出仕相止め、城に引きこもりまかり出ず候間、田村4人の年寄衆、紀伊ところへ使を相立て、
「如何の儀を以てまかり出ず候や、存分候はばありのままにもうされるべき」
よし申しことわり候えば、初めなにかくと申され候えども、しきりに子細を尋ね候て、後は
「成実より三春へ出仕候はば、相抱えらるべく候間、出仕無用のよし御知らせ候ゆえ、まかり出ず候」
よし申し候につき、田村4人の衆より我らところへ申され候は、
「大越紀伊出仕つかまつり候はば、相抱えらるべく候條、まかり出で候こと無用のよし御知らせにつき、まかり出ず候よし、申され候。如何の儀を承り、左様の儀を紀伊ところへ御申し越し候や」
と申され候條、我ら挨拶申し候は
「いかで左様のことを申すべきや。田村御調、なにかく難しく候間、如何にも相鎮むべしと存じ候。難しき儀知らせ申すべき儀にこれなき」
よし返答申し候。さ候えば4人の衆、紀伊ところへ申され候は、
「理のとおり成実へ申しことわり候えば、努々左様には申さず候よし御理に候間、出仕いたされしかるべき」
よし申され候ところ、必定内ケ先右馬を以て左様に御知らせ候よし申され候につき、我らところへ重ねて紀伊申され候とおりを承り候條、田村衆への挨拶には
「右馬に様子承り候えば、申し分には我らこと久しき紀伊殿御懇切にござ候を、世上は紀伊殿御心替わりのように申し候間、左様の御存分候はば、三春への御出仕御無用に候。御生害なされ候や、相抱えられ候や、計り難く候」
よし、我ら御異見には申し候。成実より左様申され候には、大越備前承り違いにこれあるべきよし申し候間、その通り田村へ返答申し候ところ、田村4人の衆申され候は
「内ケ先右馬と大越備前も相出で候て、対決いたさしめしかるべき」
よし承り候條、
「もっとも備前まかり出候はば、右馬差し越し申すべき」
よし返事申し候。2月はじめ、鬼生田と申すところへ、大越備前まかり出で候よし、申し越し候間、
「田村より検使ござ候や」
と尋ね候えば、
「御検使は参らず候」
よし申し候間、
「御検使これなく候はば、右馬出し申すまじく」
申し候につき、大越備前まかり帰り候。その後田村へ拙子使いを差し越し、
「この間右馬まかり出で申すべく候えども、検使を差し添えられず候よし承り候て、相出で申さず候。重ねて備前に検使を相添えられ、相出でしかるべき」
よし申し越し候えば、田村衆も満足申され候て、検使両人に差し添え、鬼生田へまかり出で候間、右馬も相出で候。対決のことは、備前は、
「そのところをもって、成実御理には、三春へ出仕申すまじくお知らせ候」
と申し候。右馬申し候は
「御存分違い候はば、御出仕御無用のよし、我らの御異見に申し候ところ、御出仕なされず候はば、逆心の御企てと相見え候。ただただにも御存分違わず候はば、三春へ御出仕なされるべく候。三春において御相違あるまじき」
よし申し候て、らちも相付けずまかり帰り候。このごとく御調いむつかしく候ゆえ、田村に各打ち寄せ、伊達を頼み入るべきや、また如何様につかまつるべきよし相談候ところ、常盤伊賀と申す者、初口に申し出で候は、
「御相談に及ばず候。清顕御存命のみぎり、御名代は政宗公渡され申し候間、御思案もこれなく候。さりながら、各御分別次第」
のよし、申し候條、誰も別に申し出ずべき様これなし。いずれも伊賀の申す通りもっとものよし落ち居り候。さりながら、上は伊達へ、内々は過半相馬へ相引き候。その子細は、田村に牢人衆の表立つ衆は、多分相馬衆に候。梅雪右衛門内々には、相馬へ申し合わされ候相馬牢人衆を、申し組まされ牢人傍輩のよし申し候て、いずかたにも懇切なる者に候間、仙道佐竹。会津の浪人も、いずれも梅雪右衛門へねんごろに候。その様子を石川弾正傍輩にて候間、存じ候。前に候條、当座清顕公御意をもって、政宗公へ御奉公つかまつり候ても、末々身上大事に存じ、その上、御北様相馬義胤の伯母にて、政宗公御夫婦間しかるなきゆえ、御恨みに思し召し候を、弾正存じ候て、相馬へ申しより、4月7日に事切れつかまつり候。

「成実記 目次」

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