一、田村の衆、相馬へ申し合わせの衆も……

一、田村の衆、相馬へ申し合わせの衆も、もっとも伊達御奉公の衆も、石川弾正逆心つかまつり候間、政宗公御出馬なさるべしと存じられ候とも、一切お沙汰これなきについて、田村月斎・橋本刑部、白石若狭を頼み、米沢へ申し上げられ候は、
「弾正逆心つかまつり候間、即ち御出馬なされ、御退治せられ候よし存じ候ところ、左様にもこれなく候。田村は過半は相馬へ申し合わせ候えども、政宗公御出馬を気遣い候て、事切れも申されず、弾正は相馬義胤を、引き出すべき為をもって事切れつかまつり候間、御出馬なされ下さるように」
と申し上げられ候。御意には、石川弾正事切れつかまつり候上、即ち御出馬なさるべき儀に候えども、最上の御弓矢に候。いずかたにも境目には、大名差し置き候えども、長井は最上境に小身者ばかり差し置かれ候間、米沢を明け、御出馬なさること気遣いに候。その上弾正抱えの地、一カ所も取らせられず候て、一働き二働きの分にて御入馬なさり候ことは、如何思し召し候につきて、御延引なされ候のよし、御挨拶に候。重ねて月斎・刑部申され候は、
「左様の御底定は世上に存ぜず候。一切御馬くつろぎ申さず候よし、田村士ども存じ候も、残りなく相馬へ相付くべく候。いずかたの御弓矢も左様に御手際は御座候儀これなく候間、久しき御在馬はまかりなるまじく候。早々御出馬、一働きなされ、御入馬のようにいたしたく候。御出馬を恐ろしく存じ候て、今、田村の者どもは手切れつかまつらず候。かよう処置まかりならず候はば、我ら両人の者は切腹疑いなし」
のよし、しきりに御訴訟申され候について、御陣触仰せつけられ、大森へ4月14日に御出馬なされ、5日御逗留にて、20日に塩松築舘へあい移られ候。石川弾正抱えの地は、筑山その身の居城に候。小手森の城ーーかの地は塩松御手に入り候みぎり、弾正に御加増になる城に候。「とどろき」と申す城は相馬境目にて、親・摂津居り候。小手森は築舘近所に候間、小手森へ御働きなされ候ところ、相馬義胤、政宗公御出馬のよし聞こし召し、一日前に筑山へ御出で候。小手森へは石川弾正自身籠もり候。筑山は相馬衆にて抱え候。政宗公、小手森の地形御境なさるべく思し召され、北より南へ御通りなされ候て、内より鉄砲打ちかけ候えども、召し連れられ候衆、鉄砲へも御打たせるなく御通りなされ候。その日は何事なく、打っ立てられ候。我ら南筋気遣いに候間、二本松へその夜まかり帰り候。翌日天気しかるなく候えども、築舘へ伺候候へば、御働きあい延べ申し候間、まかり帰り候。日々に参り候えども、天気悪しく御働きこれなき由、25日に大森へ籠もりなされ候。月斎・刑部承り驚き申され候て、白石若狭と我ら両人頼みにて、申し上げられ候は、
「一働きと申し候えども、4-5日も御働きなさるべきよし存じ候ところに、天気ゆえとは申しながら、一日御働き、御引き籠もりなされ候。最上境深く御気遣いと相見え候のよし、田村の者ども存じ候はば、このごろまで伊達を頼み入り候者も心変わりつかまつるべく候間、せめて大森御在馬もなし、田村へも長井へも不慮の儀候はば、御早打ちなさるべきよし思し召され、大森に御在馬なされ候よし、諸人存じ候様につかまつりたき」
と、月斎・刑部にも両人申され候ことは、よんどころなく存じ候て、若狭同道申し、大森に伺候いたし、原田休雪斎・守屋守白・伊藤肥前・片倉小十郎4人をもって、月斎・刑部申され候とおり申し候ところ、伊藤肥前申すは、
「御訴訟はもっともに候へども、御存じのごとく、長井には大名一人もこれなく候。境にも少身衆ばかり籠め置かれ候。御出馬なされ候御早打ちと申され候ても、最上境へも大森より200里に及び申し候間、御用に立たずぎに候。当地御在馬は如何に存じ候」
よし申す。白石若狭申し候は、
「田村の様子を大形に存ぜられ候や。月斎・刑部御奉公を存じ詰められ候ばかりをもって、先ず踏み沈め候分も、大森を御引き込みなされ候はば、両人も頼みなく候。存分違うの儀も、計りがたく候」
のよし申し候ところに、また肥前申し候は、
「田村をあい抱えられたく思し召され候ても、長井に急事出来せば、所詮無き儀に候はば、以来には田村の御抱えもまかりならず候間、まず本に急事これ無きように申したき」
よし申し候。小十郎申され候は、
「これにても問答、入らぬ事に候。御耳に相立て、御意次第に申されしかるべく候」
よし申し候て、まかり出で、披露いたし候ところに、御意には、もっとも両人申し候ところ、よんどころなく思し召され候や、このたびは天気ゆえ御手ぎわなく候て、大森へ御引き込みなされ候、もっとも当地に御在馬なされ、いずかたへも御早打ちなさるべく間、月斎・刑部心安く存ぜらるるべきよし、御意を受け、まかり帰り、白石若狭をもって申すところ、月斎・刑部満足申され候。

「成実記 目次」

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