老臣の持ってきた知らせを聞いて、男は長い息を吐いて阿武隈を見た。
眼下の馬廻りに自身の徽である竹に雀の旗がたなびいているが、街道筋には軍が行き交い砂塵が舞う。そのうちの幾つかは、男のこもるこの城を目指しているのだろう。
「――羽田」
と、男は振り返らずに老臣を呼んだ。
「は、」
「どうやら、潮時だな」
「……おそらくは、左様にて」
そして男は低くつぶやいた。
「……揚北はついに動かざったな」
男の顔は笑っていたので、羽田も笑って
「左様で」
と応えた。
「では、兄の下へ行こうか。此処は伊庭野に固めさせろ。……いつでも火の手をあげられるようにな」
男の名は、伊達兵部大輔実元という。いや、「上杉」実元といってもよいか。
越後の守護・上杉定実に後嗣なき故、縁あって伊達家から上杉家に養子に迎えられようとしていた。
定実の娘が伊達家に嫁し、13代尚宗を生んでいる。今は14代稙宗の代。実元はその三男であるから、定実は実元の曽祖父にあたる。加えて、実元の母は越後揚北の有力国人・中条氏の女であった。
越後では、守護代長尾氏を立てる派と、守護定実を立てる派で争っていたから、実元の入嗣は定実派が伊達家の後ろ立てを得る目的があった。一方で、伊達家も稙宗がようやく長い間空席であった奥州守護の地位を得たこともあり、名門上杉氏と誼を通じるのは願ったりのことである。
両家では大層力を入れて、この慶事の準備をした。
上杉定実は家宝の太刀と「竹に雀」の紋を贈り、さらに元服に「実」の一字を与えて実元と名乗らせた。
伊達稙宗は精鋭百騎を実元に付けた。羽田も実元の付家老として、実元の臣になったのだ。
将来の越後守護職として両家は実元の任官を朝に請い、実元は五郎という通称を改め、兵部大輔とした。正式な任官によって、従五位下兵部大輔となる日も近づいていたからだ。
上杉方からは平子と直江が迎えに来て、越後への出立の日取りも決まり、後は吉日を待つだけのはずだった。
そこへ――乱が起こった。
稙宗の嗣子、晴宗が突如として狩りに出ていた稙宗を捉え、幽閉してしまったのである。同行していた実元もともに捉われの身となった。まもなく助けだされたものの、その時には越後の迎えは帰っていた。七年前のことだ。実元は十六だった。
何故、兄がそのような挙に出たのか、実元は知らない。兄と中野宗時が自身の越後入りに反対し、父や懸田俊宗と対立していることは知っていた。ただ、兄はそのようなことをする人物とは思っていなかったのだが――。
「五郎とそれに付ける精兵百騎。これを失えば伊達は蝉の抜け殻のようになる」
そう言って晴宗がいつになく父を睨んだ時、今思えばすでに心を決めていたのだろうと想像するばかりだ。
兄と父との争いは、奥羽全体を争乱に巻きこんだ。
当初の虎視眈々と互いに機会をうかがうこと二-三ヶ月。戦支度にあわただしい梁川の城で使い込んだ鎧を渡され、
「初陣じゃ。次郎の奴に目に物見せてやれ」
と稙宗は実元に言った。
「灸をすえればあやつも言うことを聞くだろう」
と。
実元は背後を見た。父からつけられた百騎は少し減ったもののまだ実元と稙宗に従っていた。
「……越後にはいつ参れますか」
実元の問いを稙宗は愚問だと笑い、答えなかった。
梁川、西山、白石、大森、本宮。仙道を転戦していく。稙宗は娘婿の大名たちに協力をあおぎ、国人たちには知行を餌に味方につける。当然晴宗も同じことをしているはずだ。
実元も母の実家――まだ見ぬ従兄弟に当たる、中条藤資に書状を出した。長井・米沢方面は晴宗の勢が優勢であったが、越後から兵を出してもらえば挟撃する形となる。
だが、中条からの返事はなかった。越後では前々から実元の入嗣をめぐって揉めていたのが再燃し、それどころではなかったのだ。
少しく優勢になれば膠着する。こちらをおさえれば、あちらが火を噴く。父の一将として戦いながら、実元はいらいらと数年を送った。
稙宗からまかされた大森城を拠点として敵地へ攻め込む。田を焼き、兵を討つ。なんのことはない。敵将はどこへやら落ち延び、自分が得るのは収穫の出来ない田と、働き手のいない村だ。戦がこれでとりあえず終われば、ゆるりと復興していくだろうが絶え間ない戦でそのゆとりがない。
「ただの身内の食い合いではないか」
さすがは五郎どの。名に恥じぬ御武勇。などと誉めそやされるころには、果てのない持久戦に飽いていた。事実、戦費の調達にも苦労していたのだ。その思いは諸侯も同じだったらしく、父には和睦を勧める書状が届くようになった。
そんな頃に、岩城重隆と芦名盛氏が晴宗方についた。元々、伊達家の譜代には晴宗につく者が多く、植宗方は諸侯の威を借りてどうにか抑えこんできたのだ。諸侯の心が離れていったところに、南奥に威を誇る芦名・岩城が晴宗を支持したのは大きかった。
まず、日和見していた国人たちが晴宗を支持しはじめ、月日が経つごとに徐々にその数が増えていった。
中条へ出した何度目かの書状の返信に、越後の乱の収束が記されてあった。曰く、守護代長尾の総領に景虎が起ち、自分も寄騎となった。上杉定実侯も長尾景虎の庇護下にあり、そちらに交渉されたし。景虎どのは義を重んじる御方にて悪いようにはなされぬと存ずる云々。
実元は絶望とともにその書状を見た。うすうす感じていたことではあったが、守護家が守護代家に完全に屈したのだ。越後に行き、長尾の下風に立ってなんになろう。
沈鬱な軍議の翌朝、実元についていた臣たちの多くが消えていた。越後で重い地位を受ける約束がはっきりと反故になったのだから無理もない。
「羽田、伊庭、牛坂――」
実元は残った者たちの名を呼び、問うた。お前たちは去らぬのか、と。
「毒を食らわば皿まで、と申しますな」
「今さら返り忠したところで大差はありますまいて」
何人かがそんな声を上げて笑った。実元も笑った。久しぶりに笑った気がした。
夏になって父から、「兄に従え」と書状が来た。前後の事情の説明もなにもなく。あの人はいつもそうだ、と実元は苦笑した。自分を手駒として扱う。
父に老いを感じるようになったのは何時からだろう、と実元は思う。無邪気に越後行きを考えていた七年前にはなかった感情だ。実元は父に反旗を翻した兄の年齢を過ぎた。……兄の考えも分からぬでもない。
だが、残った寄騎――羽田らの意地も立ててやらねばならぬ。そして実元自身にも意地がある。
晴宗が来ている、との知らせを受けて実元は杉目城へ出向いた。
「兄者と和せ、と父上より書状が来たゆえまかりこしました」
そう言って礼を取った実元を、晴宗は満足そうに眺めていた。
それが少しばかり悔しく、実元は尋ねる。
「兄者と和せば、私は越後へ参れましょうか」
仮定形で話し、七年前の約束を持ち出す。晴宗は顔をしかめた。
実元ももとより、そんな約束が果たされるとは思ってはいない。この七年、越後は奥羽には関わりを持とうとはしなかった。中条から知らされる、とうの前に反故にされているのだ、あの約束は。
けれども越後守護「上杉実元」となる証の品々はまだ実元の手にある。宇佐美長光の太刀、実元の武名と共に奥州を駆けた竹雀の陣幕。そして――。
実元は一笑して晴宗を見つめた。
「言い方を代えましょう。……兄者はあの時、私と麾下の百騎を惜しんで下さった。今、私のもとには減ったりといえども精兵数十騎がおります。兄者は今でも我等を惜しんでくださいましょうか」
上杉は自分をいらぬという。守護の矜持を捨て、長尾の庇護を得る道を選んだ。それも無理はない、と実元は思う。それほどに定実は老いているのだ。何といっても実元には曽祖父なのだから。そして父もまた老いた。子に対して妥協し和睦するなど、少し前までは考えられぬことだった。
では、兄は。伊達は実元をどう買うか。
射るように晴宗を見る。
兄は表情を変えぬまま、呟くようにおのれの名を唱えた。
「……五郎といい、兵部といい」
父上はつくづくお前のことを気に入っておられた、と晴宗は言った。
「九代さまの通り名をいただき、越後の名跡を継がせ。そこまで思うならば、おれなど廃嫡すれば良かったものを」
そこで初めて、自身の通称がいずれも中興の祖といわれる大膳大夫政宗と同じであったことに実元は思いいたった。宿った腹の違いが、そのまま晴宗と実元の立場の違いになった。
「おれはお前を放さぬぞ、五郎。父の代わりにお前がおれに膝を折れ。おれは気前がよくはない」
実元が晴宗に従えば、続く将の数は少なくない。稙宗の秘蔵っ子は乱の間に武名を著わし、それだけの影響力を持っている。
だから。伊達にいろ。おれに従え、と兄は言う。
「では――、私に大森の城と、一族筆頭の席を」
「城はいいだろう。だが、お前は脇腹だ」
実元は瞑目し、そして言った。
「私の母は、芦名の出。兄者と同じでよいでしょう」
晴宗は驚いた顔で実元を見た。実元はそれを見つめ返す。
「長尾のものになった越後に未練はありませんよ。兄者は私を惜しんで下さった。故に私は伊達の者になりましょう。けれども質もなしにそう言えるほど、私はできておりません。欲深なのは私も同じ。それなりの見返りはいただきたい」
自分をもっとも高く買うのが晴宗であるなら、父のためでも兄のためでもなく、自分のために「伊達」を名乗ろうと実元は思う。伊達を名乗り、伊達の者として生きるからには、それを最大に利用させてもらう。
「中条の母は幸か不幸か私を産んでまもなく亡くなり、私は兄者と同じ館で育ちました。別に不自然はないと心得ます。脇腹の子が、正室の猶子となる。珍しいことではありません」
役にたたぬ血縁など、なんの意味もない。実元はこの乱で痛いほどそれを思い知っている。
「なるほど。奥州で生きるならば芦名の血縁の方が通りがいい。越後との縁を自ら切る覚悟はよくわかった。おれのために働くならば一族の上席にお前を据えよう」
「伊達のために働きましょう」
食えぬ奴め、と晴宗は苦笑した。
「さあ、これでおれからお前への質は十分だろう。……お前は何を質として出す?」
実元は首を傾げる。
「普通ならば妻子を差し出すところですが、あいにく私には未だいずれも在りません」
言って、次の間を振り返り腹心を呼んだ。
「羽田」
畏まって羽田が恭しく広蓋を差し出す。中には竹に雀の陣幕。実元が作らせたものではなく、七年前に上杉より贈られたそのものだ。
「これを兄者に献上申し上げます。伊達の総領に従うしるしに。数年もすれば、『竹に雀は伊達どのよ』と世上にうたわれましょう」
「それだけの働きを、お前に期待しよう」
言って晴宗は立ち、会見は終わった。
平伏した実元が体を起こしたところで、羽田は膝行して傍に寄った。
「大森の安堵、重畳に存じ上げます」
「まだ喜ぶのは早いぞ、羽田」
実元は晴宗の立った席を見つめたまま、言う。
「まだもう一波乱ある」
乱の間に生じた近隣諸侯への借り、分裂した家中の掌握に晴宗は手を焼くはずだ。分けても、乱の端緒を作った中野宗時と懸田俊宗の反目は、とりあえず双方が晴宗に帰順した後も続いている。そして乱に勝利した晴宗も新しく領を得たわけではない。与える恩賞にも苦慮すると思われた。
「お前たちの所領の安堵も取りつけるよう、その間になんとかしてみよう。従うものあっての将、治めるものあっての主だからな。お前たちの扶持がなければ、私の価値もない」
確かに今のままでは、実元に従った者の所領がどこまで安堵されるのかはわからなかった。今まで晴宗に抵抗を続けていたのだから、最悪の場合はすべて没収されるだろう。
だが、羽田は静かに首を振った。
「今はとりあえず、大森へお帰りなされませ。晴れてあなたさまの城でございます。実り豊かな土地になさいますように」
実元が見ると、羽田は顔を上げて続けた。
「我等が扶持は大森の実りで賄えるよう、よろしくお願い申します」
真顔で言った羽田に、実元はあきれた。
「それは脅しか?」
そこまで大森を豊かにしろという。
「はて、大真面目ですが」
と、羽田が口角を上げて見せる。実元もははっと声をあげて笑った。
「空が高いな」
城へ帰る道すがら、実元は空を見上げてつぶやいた。馬上にそよぐ風が、干された稲の香りを運んできた。
羽田、と実元は振り返る。
「初めは簡単なものでいい。麓に館を造ろう」
今まで実元は植宗から大森の城を預かっているに過ぎなかった上に、戦が続いていたので山頂の城に住居していた。
「ようござりましょう」
羽田は微笑んで答えた。実元が二十歳過ぎの青年らしい晴れやかな顔を、本当に久しぶりにしているのが単純に嬉しかった。