父二人――宗実回想 

 伊達治部宗実――幼名喝食丸は政宗の九男である。元和偃武のなかに生まれ、亘理要害の主である伊達安房成実の養子となった。
正式に養子となったのは寛永十六年だが、成実に引き合わされ、約を交わしたのはもっと早い。あれは八歳のとき――仙台の伊達安房屋敷だった。実父(ちち)、政宗は江戸と国元とを行き来していて、それまであまり一緒に出歩いたことはなかったが、その日は威儀を正して私を招き、輿に乗せて安房屋敷へ連れていった。初めて会う大叔父――いや、義父(ちち)は少しとまどったように笑って、私を抱き上げてくれた。どちらかといえば小柄な、がっしりした体格の人だった。日に灼けた肌と太い腕は歴戦の武将であることを物語っていた。自分には子ができなかったからな、とすまなそうに義父は言った。
子煩悩な人だった。文武ともに厳しく仕込まれたが、つねにそこには優しさがあった。狩に行って大物を仕留めた時は手放しで喜んでくれた。竹を割ったような気性で好き嫌いははっきりしていたが、礼を知り、節を守る立派な人物であったし、何よりも自ら勇武無双と称し、藩主政宗の片腕と評されるその戦歴は私の憧れだった。
元服に際しては実父政宗と義父成実の一字をとって治部宗実と名乗った。満足げに頷く実父と目を細める義父――。私は天下の副将軍たる政宗と、その第一の勇将である成実を父に持つことを誇りに思った。
私が亘理に行くことが多くなると、実父も政務の合間をぬってよく川狩り、鷹狩りにやってきた。実父は水浴びが好きだったので、阿武隈を擁する亘理郡を気に入っているようだった。義父は実父を丁重に迎えたが、政(まつりごと)についてよく論を戦わせていた。その度に私は身が引き締まる思いだった。そして最後には義父が鉾を収めるのが常だった。
だがいつの頃からか――私を見る二人の優しさの奥にあるものを感じていた。それが何かはわからない。ただ、義父が私や実父を見るときにときどき見せる遠い目と、実父の悲しげな独眼は、私には近寄りがたいものだった。
実父が亡くなる数年前のことだったか。父子(おやこ)三人で狩に出た時だ。
突然の雷雨に、狩り小屋へ避難した。雨の勢いは止むことがなく、そこで夜を明かすことになった。実父は私と義父以外の供の人間を全て別の小屋へ退け、手ずから炉に薪をくべ、獲物をさばいて食事を作ってくれた。野趣あふれる、初めての体験だった。
「……恐悦至極に存じまする」
義父が勿体ない、と頭を下げた。
「何を言う、安房。昔はよく戦陣で一つ鍋を囲んだではないか」
「そうではありますが……」
私は初めて野陣に思いを馳せた。私は戦を知らない。このように雨に打たれることはこれまでにも何度かあったが、これほどまでに粗末な狩り小屋に宿るのは初めてのことだったし、それを戦に結びつけるなど、思いもよらなかった。このときほど自分をなさけなく思ったことはない。実父は未だに天下への野心を捨てておらぬと噂され、国でも一朝幕軍が攻めてきたときは、と準臨戦体制にありながら、自分には全く戦への覚悟が身についていなかったのだ。覚えず赤面して下を向いた。
「どうした、治部。顔が赤い」
熱でも出したのではないか、と額に手をあてたのは義父だった。
「慣れぬことで疲れたのだろう。そのうちに平気になる。……が、まあ今日のところは休め」
少し歯痒そうに実父が言った。熱があるのは事実だった。雨音に同調するように身体(からだ)の火照りが脈打っていた。
私は素直に一礼して部屋の隅に横になった。二人の目は例の、近寄りがたい目になっていた。別に厳しいわけではない。だがそれは孤独な、優しく冷たい瞳だ。
二人は身体の上に乾いた藁と行縢(むかばき)をかけてくれた。うとうととした心地よさが訪れたが、完全に眠りこむことはできなかった。
ぱちん、と薪のはぜる音がした。静かだった。実父も義父も何も言わなかった。雨の音が幾分勢いを弱めて続いていた。
「……五郎よ」
実父の声だった。
「その名でお呼びになるのはずんと久しぶりでござります」
静かで丁寧な、いつもの口調で義父が答えた。
「今はよい。昔の調子で話せ」
「昔もなにも……」
義父はちらとこちらを見たようだった。
「気にするな。よう寝ておる」
実父がいらついた、不機嫌な声で言った。
「我らが次郎と五郎であったときのように話せと言うておるのだ」
「はて、そのようなときがありましたでしょうか」
義父の調子は変わらない。
また、長い沈黙。
「……儂(わし)はわびるわけにはいかんのだ。だが、このままでは千載に悔いが残る。……儂は、小次郎亡き後はお主を弟のように思っていたのに。……何故出ていった。そして何故戻ってきたのだ。……ああ、繰り言ばかり多くなる。なんとか、言え。五郎」
義父が一時伊達家を出奔した時のことを言っているのだ。実父は即座に義父の居城角田を召し上げた。しかし仰せに従わぬ輩(やから)が最後まで明渡しに抵抗し、ついに合戦に及んだという。私は藁の中で身を固くし、息をひそめていた。
「……儂も、もう戻るまいと思っていた」
私は義父が実父と対等の口をきいたことに驚いた。義父は一門の第二席であり、実父の学友であったことは知っている。だがこの口のききようは無礼ではないのか。
「伊達家を出奔したことはさておき、角田へ帰るときを逸し、家臣のある者は城を枕に討死にし、ある者は逃散し、またある者は失望を抱いて政宗どのに降った。どの面さげておめおめと戻れよう」
義父は自嘲気味に笑った。私はそっと脇差を鞘ごと握りしめ、薄目を明けて二人の様子を窺っていた。いつ実父の怒りが爆発して義父に打ちかかるやもしれぬ。
「……何故、戻ったのだろうな……。ただ、儂は一人で立つことができなかった。どこまで行っても政宗どのがあった。儂は政宗どのの影を振り切ることができなかったのだ。つまるところ、政宗あっての成実だったのよ。……ふふ、不甲斐ないことだ。亡き父(伊達実元)が聞けばさぞ嘆くだろうな。なんとかして抜け出そうとあがいているうちに、政宗どのは角田を陥(おと)してしまわれた」
「あれはやむをえぬ仕儀じゃ」
意外なほど淡々と、実父は言った。
「当然だ。儂が政宗どのでも同じことをした。……わかるだけに憎しみも倍増したがの」
なんと恐ろしいことを義父は、あっさりと言うのだろう。天下の副将軍たる実父は、私にとって神にも等しい存在だった。
「……固い地面に種が落ち……、芽生え……、根を降ろした木々を伐り倒すように……。政宗どのは我らの持つ力を取り上げ自分の元に集めておられる」
「そうでなければ国は富まぬ。大身の臣がそれぞれ好き勝手をしていては仙台藩が成り立たぬわ」
「そう。それも、わかる。だが、それも身を切られる痛みだ」
「儂とお主はともに育った。梵天丸、時宗丸と呼び合い、次郎、五郎と呼び合うて夢を語った。年も一つしか違わぬ」
……怒りではない。嘆きが染み出すように声がかすかに震えている。こんな実父は初めて見た。
「ああ、たった一つの違いだ。そしてこの体内に流れる血の、ほんのわずかな違い」
義父は一瞬懐かしそうに目を細めた。
「知っているか、政宗どの。儂はずっと政宗どのを追いかけていたのだぞ。……いつの日か、追いつけると思っていた儂が愚かだったのだ」
「……五郎」
「五郎も、次郎も、もうおらぬよ」
あっけらかんと義父は言った。実父は少なくなった奥歯をかみしめて黙りこんだ。ゆっくりと義父が語った。
「人取り橋の、雪をも溶かす熱気を覚えているか」
「……」
「摺上原の青空。あの忌まわしい高田粟の須。心を鬼と化した小手森。我らが命をもやした数々の合戦も、今は知る者も数えるほどじゃ。人伝ての話を聞くだけの者に、どうして心の数だけある真実(まこと)を知ることができよう。我らの諍いも同じこと。備中(片倉景綱)も、大和(石川昭光)も、もうおらぬ。儂が死に、政宗どのが死ねば全ては闇の中。それでよいのだ、おそらくは」
「そうして儂に、お主を殺させたままでいる気か」
「そうだ。儂はあのときに死んだ。だがそれは伊達家に戻ろうと決意したときだ。それからの生は長い余生だ。自分で選んだことだ。……悪くはない」
「それでは儂の気がすまぬ」
実父は義父の手を取って絞り出すように言った。いつもの豪放磊落な実父ではなく、折れるように繊細な実父がそこにいた。情の強(こわ)さだけが共通していた。
「それは政宗どのの情だろう」
義父は哀れむような目になった。いや、哀しみかもしれない。
「政宗どのは情と理を見事なまでに分けられる。儂に治部を下されたのもそうじゃ。付家老も有能な輩(ともがら)ばかり。新田の開発、街道の整備、阿武隈の治水、どれもよくやってくれる。だが、亘理よりも治部、治部よりも藩のことを考える。……もし儂がいなくなっても、何も滞ることはあるまい」
実父はもう何も言わなかった。ただ義父の肩に手をかけ、身体(からだ)をもたせかけるようにして黙っていた。
義父も実父の肩に手をかけた。
「我らの間の、憎しみも歓びも余人には語らぬ。全ては儂が持ってゆく。……ただこれだけは申し上げる。儂は殺したいほどに政宗どのを憎んだが、それ以上に政宗どのに惚れておったのだ」
充分だ、といいたげに実父は頷いた。
翌朝、夕べの雨が嘘のように澄んだ蒼穹が天にあった。私は胸一杯に風を吸った。
「治部、熱は引いたか」
義父が私の顔を覗きこんだ。
「甘やかすな、安房。ためにならぬ」
実父がまた歯痒そうに、だが面白そうに笑って言った。
「甘やかしているわけではござりませぬ。とのにはこの安房の後継ぎを何とお考えか」
憤慨したように言う義父。
昨夜の面影を微塵も残さぬいつもの二人だった。私がひそかに聞いていたのを知ってか知らずか――。
私の中に性根といえるものが座ったならば、それはあの夜の話を聞いた後であろう。

晩年、義父は実父の伝記を著すのを一代の仕事と定めていた。
正保三年。
前年から身体の調子を崩していた義父は二月に隠居し、私が亘理領を襲った。義父は次第々々に寝ている時間が多くなった。実父既に十年の昔に鬼籍に入っていた。
地震があったのは四月だった。仙台城の櫓が崩れるほどの大きなものだった。義父は病み疲れた身体を居間に横たえていたが、家臣や女房が立ち騒ぐのを一喝し、半身を起こして指揮を取ったという。

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