「事変―粟の巣―」を書く時に作った表です。見にくいですが、置いておきます。メモなので、原文をひっぱっていたり、意訳していたり^^;
政宗記 (戦国資料叢書) |
成実記 (仙台叢書) |
伊達日記 (群書類従) |
政宗公軍記 | 山口道斎物語 | 元和8年 老人覚書 |
木村宇衛門覚書 | |
8月初め | 輝宗政宗、小浜に入り、宮森を輝宗の居城とする。 | ||||||
9月26日 | 政宗、小浜に入る。 | 政宗、小浜に入る。 | 政宗、小浜に入る。 | ||||
義継降参 | 義継は塩松へ加勢を出していたが、 伊達勢が勢いづいているので、実元を頼んで降参すると決めた。(巻2 二本松八丁目境和睦之事) |
輝宗は義継に昵懇なので、義継に降参しないかといってきた。輝宗より提案の講和条件は、5ケ村の身代、郎党は本地安堵の上、伊達に奉公。義継、合戦しようというが、老臣の説得で降参を決意。 | |||||
交渉経緯 | 義継「相馬御陣の時も協力したので身代を立ててほしい」 と実元にいう。 |
義継「相馬御陣の時も協力したので身代を立ててほしい」 と実元にいう。 |
義継「相馬御陣の時も協力したので身代を立ててほしい」 と実元にいう。 |
義継「代々伊達を頼んで身上を立ててきたが、近年、会津佐竹岩城より田村へ弓矢。われらも田村へ恨みがあるので、佐竹の味方をしtらが、相馬御陣の時も協力したので身代を立ててほしい」 と実元にいう。 |
義継、輝宗に、上記の条件で降参を伝える。 | 義継存念「輝宗父子威勢強くまかりなられ候えば、ついにはかない難く候えども、さりながら代々管領仕り候地を輝宗に渡し、その上家来にならるべき段、無念至極」 | |
実元は病気のため、小浜へ行けず。 輝宗にこれを伝える。 |
実元、輝宗にこれを伝える。 | 実元、輝宗にこれを伝える。 | 実元、輝宗にこれを伝える。 | 内室は輝宗に由緒これあるにつき、和談を申入れ、義継が輝宗父子に出仕御礼申し上げる旨を申し上げたが、政宗の承引がない。 | |||
輝宗、政宗にこれを伝える。 | 輝宗、政宗・宿老にこれを伝える。 |
内室より輝宗へさまざま申入 | |||||
政宗「大内への合力は許し難いので二本松を攻める」 | 輝宗「大内への合力は許し難いので二本松を攻める」 | 政宗「大内への合力は許し難いので二本松を攻める」 | 政宗「大内への合力は許し難いので二本松を攻める」 | 政宗、大内への強力を不服として難色をしめす。 | |||
輝宗、政宗をいさめる。 | 義継、さらに詫び言。 | 義継、さらに詫び言。 | 義継、さらに詫び言。 | 輝宗、政宗を説得。 | |||
政宗「5ケ村にて身代をたて、子息を人質に」 | 輝宗「5ケ村にて身代をたて、子息を人質に」 | 政宗「5ケ村にて身代をたて、子息を人質に」 | 輝宗「5ケ村にて身代をたて、子息を人質に」 | ||||
義継「南なりとも北なりとも一方の召上げに」 政宗、断る。 |
義継「南なりとも北なりとも一方の召上げに」 輝宗、断る。 |
義継「南なりとも北なりとも一方の召上げに」 政宗、断る。 |
義継「南なりとも北なりとも一方の召上げに」 輝宗、断る。 |
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義継「では郎党を本地安堵の上召し抱えてほしい」 政宗、断る |
義継「では郎党を本地安堵の上召し抱えてほしい」 輝宗、断る |
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10月6日 | 義継、輝宗陣所(宮森)を突然訪問。 | 義継、輝宗陣所(宮森)を突然訪問。 | 義継、輝宗陣所(宮森)を突然訪問。 | 義継、輝宗陣所(宮森)を突然訪問。 | 義継騎馬をも召さず手回りばかりで小浜へ | ||
10月6日夜 | 輝宗、小浜を訪問。 家老を集め、義継降参の旨を政宗へ伝える。 輝宗、成実に使を指示。万差引をば輝宗なさんと宣ふ |
御差し引き万事輝宗公なさるべき 家老を集め、義継降参の旨を政宗へ伝える。 輝宗、成実に使を指示。 |
輝宗、小浜を訪問。 家老を集め、義継降参の旨を政宗へ伝える。 輝宗、成実に使を指示。 |
輝宗、小浜を訪問。 家老を集め、義継降参の旨を政宗へ伝える。 輝宗、成実に使を指示。御差引万事輝宗公なさるべき由仰せられ候 |
使いは成実。実元が義継と懇ろだったため。 | ||
義継、成実に 「実元を頼んだが、敵ということで政宗の承引がない。 我が身を成実と輝宗公にまかせる。 降参の上承引なければ自害の覚悟」 |
義継、成実をもって訴訟には 「切腹しても御意に背かぬ覚悟。なにぶんにも御意次第」 |
義継「郎党を本地安堵の上召し抱えてほしいとも言ったが、それもならぬということなので、切腹も覚悟している。何事も御意次第」 |
義継、成実をもって訴訟には 「南なりとも北なりとも一方の召上げに」 罷りならず 「家中の者どもを本の知行をもって召しつかわされくださるべく」 それも罷りならず 「切腹しても御意に背かぬ覚悟。なにぶんにも御意次第」 |
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成実、政宗に伝える。 | |||||||
政宗、承引。 | 承引 | ||||||
講和条件 | 国王丸の人質のみ | 身上相済み | 身上相済み | 身上相済み | 輝宗提案の条件のまま | ||
義継、御礼の御目見えを希望。政宗受諾。 | 義継、御礼の御目見えを希望。政宗受諾。 | ||||||
10月7日 14:00ごろ |
未刻。義継、宮森から小浜の成実陣屋を訪問。和睦の目見えを希望。 成実、政宗にこれを伝え、 政宗と義継、蝋燭にて面会。 義継、宮森へ帰る。 |
八つ時。義継、政宗に面会のため、成実陣所を訪問。 時刻移り、蝋燭をたてて面会。 義継、二本松へ帰る。 |
八つ時。義継、政宗に面会のため、成実陣所を訪問。 時刻移り、蝋燭をたてて面会。 義継、宮森へ帰る。 |
八つ自分。義継、小浜の成実陣屋を訪問。和睦の目見えを希望。 成実、これを伝え、義継、蝋燭にて面会。 義継、宮森へ帰る。 |
未刻。義継、二本松から小浜の成実陣所を訪問、御礼を述べる。 日が暮れ、今晩は輝宗への御礼は無理だろう、と宮森より帰る。 |
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陣屋へ二本松殿見舞候わんとなり。中途は騒々しければ、何時にても城へ帰りて後お尋ね候はば、ゆるゆるお目にかけ向後申し合わすべし かくて俄かに明日二本松殿見舞のよし、此の方にてもとりあえずの馳走の催しなり。 |
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10月8日 6:00ごろ |
卯刻。義継より成実に使者。輝宗への御礼を希望。 | 早朝。義継より成実に使者。輝宗への御礼を希望。 | 早朝。義継より成実に使者。輝宗への御礼を希望。 | 早朝。義継より成実に使者。輝宗への御礼を希望。 | 早朝。義継より成実に使者。御礼を希望。 | ||
成実、宮森へ行き、輝宗にこれを伝える。 | 成実、宮森へ行き、輝宗にこれを伝える。 | 成実、宮森へ行き、輝宗にこれを伝える。 | 成実、輝宗にこれを伝える。政宗は鷹狩に出て、三度迎えをやったが帰ってこなかった。 | ||||
宮森には政景はじめとする家老たちが、義継降参めでたきよしとて小浜より参り、輝宗のところに詰めていた。 | 宮森には政景はじめとする家老たちが、義継降参めでたきよしとて小浜より参り、輝宗のところに詰めていた。 | 宮森には政景はじめとする家老たちが、義継降参めでたきよしとて小浜より参り、輝宗のところに詰めていた。 | 宮森には政景はじめとする家老たちが、義継降参めでたきよしとて小浜より参り、輝宗のところに詰めていた。 | 宮森には政景はじめとする家老たちが、義継降参の祝辞に、輝宗のところに詰めていた。 | |||
時刻をうつさず、義継・輝宗対面。 | 時刻をうつさず、義継・輝宗対面。 | 義継、輝宗陣所へ | 義継、早々に宮森へ。 | ||||
何の物語もなく立つ。 | ご雑談もこれなく | ご雑談もこれなく | ご雑談もこれなく | 輝宗・義継の盃事。その後雑談もこれなく | 輝宗よろこんでいろいろ馳走、数盃を尽くし | ||
上野・成実は内より見送る | 拙者・上野両人も御庭へ罷り出候へども、とおり申すべきところこれなく、御後ろに居申し候 かねて申し合わすと見え、後近くいた7-8人が輝宗の後ろに回り、成実・上野を打ち隔てて引き立て出で候 |
拙者・上野両人も御庭へ罷り出候へども、とおり申すべきところこれなく、御後ろに居申し候 かねて申し合わすと見え、後近くいた7-8人が輝宗の後ろに回り、成実・上野を打ち隔てて引き立て出で候 |
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高田というところまで10里余 | 高田というところまで10里余 | 高田というところまで10里余 | 10里ばかり高田と申すところまで御供 | 大平のうち、粟の巣というところまで(小浜より道1里弱) 川を渡り、高田の山上物見石というところへ登りてみれば算木を乱したように討ち死にす。 |
鈴石村のうち粟巣と申すところまで | ||
政宗 | 14-5里脇へ山鷹へ出て留守。 | 鷹野へでて留守 | 鷹野へでて留守 | 鷹野へでて留守 | 鷹野に参り候 | 鷹野においで | 我等は部屋住のことなれば、二本松殿見舞い給う朝に、後ろの山に猪四つ五ついたるよし 今日は表に客ありてよき隙なりとて、部屋住みの中間足軽ども猪狩りの用意なり。 我らも別して隙入ることも7なければ、出んとて弓槍鉄砲にて山へ出る |
事終わってこの乱を鷹場へ知らせ奉り | 御鷹野へ、申し上げて御帰候 | 御鷹野へ、申し上げて御帰候 | 政宗も早速に御跡を御駈け着け候えどもなさるべきようなく 二本松の留守居、新城が二発の鉄砲を聞いて物具して高田の舟渡までゆくと、向こうから味方の歩行士二人が大息ついて次第を報告。 使いが急いで川を渡り、高田山の上・物見石から見ると算木を乱したる如く討死。 |
早二本松へもこの儀あい知り人数を出し申すを政宗見届け | 早馬にて狩場の山へ告げくる。 驚き追いかけ見たてまつれば件のごとし。 注進したると見えて、人数おびただしき川の向かいに馳せ集まる。 |
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ただちに髙田へ | 夜、髙田へ出馬 | 夜、髙田へ出馬 | 夜、髙田へ出馬 | その夜は高田というところに御陣をとり | |||
取り巻き参り候内より、鉄砲一つ打ち申し候 | 取り巻き参り候内より、鉄砲一つ打ち申し候 | 伊達方にて鉄砲を一度に二つ放し打ち候えば、 | (政宗)厳しく追いかけ輝宗共に討てと呼びかけ申されたまえば、家来衆さすが手出し仕るものこれなく候えども | ||||
伊達の者ども跡を慕うはかなわずして輝宗を生害となす。 | 事急になり候ゆえ、義継つきかけ申され候脇差にて輝宗を刺殺し、その刀にて自害仕り候。 | 「捨て奉る他なし。何といたさん」と申さるるほどに「ともかくもよりところなき仕合せかな」といいければ、二本松衆ひしひしとおりいて、いたはしくも輝宗公を刺し殺し奉る。 | |||||
味方のものどもこれを見て、鬨の声にて一度にどっとおしかけ、伴の士卒はいうに及ばず、亦者までも漏らさずして50余人討ち果たす。 | 討ち果たすべきよし申す者もこれなく候えども、総ての者かかり候て二本松衆50余人相果て | 討ち果たすべきよし申す者もこれなく候えども、総ての者かかり候て二本松衆50余人相果て | 誰下知ともなくそのままばたばたとうち果たし申し候。義継の御伴の士36人、その他雑兵50余人一人も残らず討死。 | 家老下々まで残らず主の供仕り候と呼びかけ、面々自害 | |||
10月8日夜 | 輝宗の遺骸を小浜へ | 輝宗の遺骸を小浜へ | 輝宗の遺骸を小浜へ | ||||
本宮・玉井・沼川、城を捨て二本松へ。 | 本宮・玉井・渋川、城を捨て二本松へ。 | 本宮・玉井・渋川、城を捨て二本松へ。 | 本宮・玉井・渋川、城を捨て二本松へ。 | ||||
義継死骸おたずねなされ候。方々切り放し候を藤をもってつらね、小浜町の外に磔に御揚げ、数多番をつけ申され候・ | 義継の遺骸をハリツケに。 | 義継死骸おたずねなされ候。方々切り放し候を藤をもってつらね、小浜町の外に磔に御揚げ、数多番をつけ申され候・ | 義継の御死骸は小浜の町頭小川の端に磔にかけられけり | ずたずたに斬りたるを、藤にて死骸を貫き集め縫い付け、その所に旗物にかけて川向かいの敵おっぱらい | |||
10月9日 | 早朝、政宗、小浜に帰る | 未明、政宗、小浜に帰る | 未明、政宗、小浜に帰る | 未明、政宗、小浜に帰る | |||
10月9日 | 輝宗の遺骸を資福寺へ。 | 輝宗の遺骸を資福寺へ。 | |||||
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