伊達輝宗が宮森城で、畠山義継に拉致され、粟の巣(二本松市平石高田)で討ちかかった伊達勢により、二人とも死没した事件―粟の巣の変の概要は、当サイトの 合戦記>粟の巣の変 で既に記した。
この事件について、なかば好奇の目をもって議論となり、また創作作品の見せ場となるのは、「輝宗を殺したのは誰か」ということである。
輝宗を殺したのは誰か、またなぜこのような重大事件――大名二人が同時に死没する――に至ったのか。
これを各資料から検討してみたい。この事件に関する一次資料は知られておらず、軍記・軍談・伝承に頼るものとなることをまずお断りしておく。
この事件について、当事者の回顧として
塩松を入手した伊達家に対して、二本松の畠山義継は和睦を申し入れた。伊達側はこれを拒否するも、数度にわたる義継の懇望に、和睦を受諾する。
強硬に和睦を拒否し武力に訴えようとする若き政宗と、それを諌める父・輝宗、という構図は、大河ドラマ「独眼竜政宗」以来、定着したイメージであり、その後の多くの創作作品もこれを踏襲しているものが多い。
この構図の元となったのは、成実著の「政宗記」と思われる。 和睦の申入れは、畠山義継→伊達実元→輝宗→政宗と伝わり、輝宗は政宗に助言・諫言をしているものの、最終的な意思決定をしているのは政宗となっている。
しかし、「政宗記」「成実記」の異本類を読み比べると、成実自身、あるいは筆写者・編纂者の記載にも意思決定者が輝宗か政宗かのぶれがみられる。
すなわち「成実記」では、終始意思決定しているのは輝宗のように読み取れ、苛烈な和睦条件と言われた「5ケ村のみ安堵」も輝宗の発案である。「伊達日記」・「政宗公御軍記」では、輝宗の決定と政宗の決定の双方が見られる。
さて、和睦成立にいたる伊達家の意思決定者を、畠山義継側から見てみる。
「山口道斎物語」は畠山義継の家臣であった、山口道斎の回顧録である。
道斎は義継の最後の御礼には同行しておらず、輝宗拉致から義継・輝宗の死までの記述は、ほぼ「成実記」「政宗記」の異本類をなぞっている。
しかし、和睦にいたるまでの二本松城内の記述、また義継・輝宗の死から二本松城の攻防までの記述は独自のものとなっている。これによると、和睦条件を提示してきたのは輝宗となっている。
地元の伝承はどうか。「元和8年老人覚書」では、義継は輝宗に懇望したが、政宗の承引がなかった、としている。
当時、伊達家では輝宗から政宗への家督承継が行われたばかりであった。輝宗―政宗の家督承継にあたっては、二重政権期がなかったように受け取られているが、ほかならぬ伊達成実著作の、この意思決定の表記ぶれは輝宗がなおも実権を完全に手放してはいなかったことを示唆してはいないか。
政宗自身が「木村宇衛門覚書」で、
「我等は部屋住みのことなれば」
「供の者どもいよいよ怪しみ疑いもなく二本松へ戻り足を中途にて討たんと、若殿鉄砲にて出られたるべしと思えば」
と、未だ家督をついでいなかったかのように回想しているのは、自分の責任を回避する心情からであろうが、一方で当時の政宗自身の認識を示すようで興味深い。
そして和睦交渉の中で伊達側の使いに立ったのは成実であったが、それを命じたのは輝宗であり、若輩を理由に辞退する成実に、「万差引をば輝宗なさん(政宗記)」と自分が主導することを宣言する。果たして、事変当日も宮森の「輝宗陣所」に伊達家の老臣たちが和睦成立の祝いに詰めかけていたのであった。
事変当日である。
前述のように、宮森の輝宗陣所には、留守政景はじめ伊達家の老臣たちが和睦成立の祝いに詰めかけていた(「成実記」「政宗記」等)。
輝宗と義継の会見に、これらの老臣たちが同席したか否かの記述はないが、留守政景は同席している。
会見そのものについて成実は「相互に何んの物語りもし給はず立給ふ」(「政宗記」、「ご雑談もこれなく」(成実記)と記す。「山口道斎物語」は会見儀礼と思われる盃事を記すが、雑談がなかったと記すのは、成実の著作を踏襲していると思われる。
一方、「元和8年老人覚書」には「輝宗別て悦び、色々馳走これあり、数盃を尽くし」とある。政宗の回想「木村宇衛門覚書」にも「明日二本松殿見舞のよし、此方にてもとりあえずの馳走の催しなり」「御座敷にて輝宗公と二本松殿向後は御入魂、互いに御如在あるまじきなどとお話最中、俄のことなれば御台所に膳棚4-5間縄吊りにてしたる」とあり、馳走があったことがうかがわれる。
つつがなく進んだ会見であったが、その後の凶事をうかがわせる出来事がなかったわけではない。
と、タイミングは異なるものの、義継への耳打ちが記される。成実はその場で事件を目撃していたが、政宗は鷹狩に出ているので後から関係者から聞き取りを行ったものであろう。
ともあれ、この耳打ちで、おそらく義継は輝宗の拉致を決断するのである。
「……お庭までお出でなされ候。我等・上野両人ばかりお庭へまかり出で候えども、通り申すべきところこれなく、御後に居り候ところ、義継手を地へつき、「今度いろいろ御馳走過分に存じ候。さように候えば、我等生害なさるべきよし承り候よし仰せられ、輝宗公の御胸の召しものを、左手にて御捕らえ、脇差を御抜き候。かねて申し合わすとみえ、義継伴の衆、後近く居り候者ども、7-8人輝宗公の御後へ回り、上野・我等押し隔て引き出し申し上げ候」
(成実記)
なお、このくだりは「伊達日記」でもほぼ同趣旨であるが、より後の成立とされる「政宗記」では、「上野・成実は輝宗広間へ帰り給ひて後出で侯はんと、内より見送りければ」と、政景・成実は座敷の内から見送ったように改変される。
「成実記」で義継は言う。
「我等生害なさるべきよし承り候」
和睦成立と見せかけて、伊達側が義継を殺そうとした。そう考えたことが義継の動機となっている。
事件後に政宗や成実が調査したことによれば、
「彼一乱の起を後にきけば、義継七日に小浜へ御坐て政宗へ対面の時、小浜の町にて政宗の小人ども、取宿にて居りけるが、十四五人一宿して遊びけるに、彼者ども心静の折節、面々刀脇差のねたばをあはせ候はんと、半切に水を入車座敷に取巻、我も我もと抜連て合せけるを、輝宗の小人共宮森より三四人、小浜へ町用に来りけるが是をて、如何なれば左程にはいそがしきぞと尋ねけるに、其身どもは知らざるか、明日是にて二本衆を小花斬にするぞと、おどけゝるを二本衆、直者やらん又者なるか、其場へ立合ひ是を聞て、其夜義継宮森へ帰り玉ひは告げる程に、俄かに思立玉ふかと云へり」
(政宗記)「……我らも別して隙入ることもなければ、出んとて弓鑓鉄砲にて山へ出る。 二本松殿の供の衆、如何様怪しく思うところに……」
「人立ち騒ぎたる声、御座敷へ騒がしく聞こえければ、二本松殿不思議に思わるるところに、供の者どもいよいよ怪しみ疑いもなく二本松へ戻り足を中途にて討たんと、若殿鉄砲にて出られたるべしと思えば」
(木村宇衛門覚書)「義継の御供の下郎、厩に参り、見候えば、中間1人、脇指の寝刃を合せおり候を、傍輩の中間申しけるは、何をいたすぞや。今日、二本松殿も御和睦に御出、御弓矢もなく、上下めでたしとて、御座敷にては御酒宴のよしなり。よしなき事をいたすものかな、 と云いければ、かの中間申しけるは、其方は知らぬかな。二本松殿の御帰りの時、1人も残さず打ち殺せと隠密の御触れあり。我も高名して士にならんと、その用意をするなり、と語るを、義継の御供の下々聞きて、殊の外に驚き、侍衆に申せば、さては謀に合って討たれんことの無念さよと、先ず鹿子田を呼んで、いちいち知らせ、下々もっぱら、その用意しける、と申しければ、和泉も義継に告げて、御分別あそばされ候え」
(山口道斎物語)
全ての記述を仮に合成すると。
事件前日の夜、政宗の小者が「明日是にて二本衆を小花斬にするぞ」とおどけたのを、二本松衆の誰かがたまたま耳にした。
当日、二本松衆は、弓鑓鉄砲をかついで、外出する政宗一行を目撃する。
厩でも中間が、「二本松殿の御帰りの時、1人も残さず打ち殺せと隠密の御触れあり」と軽口を言う。いよいよ疑いを濃くするところに、騒がしい声が起こった――。政宗は二本松へ戻る義継を討つために出かけたに違いない。
むざと討たれるよりは、と、鹿子田は義継に言う。
「御分別あそばされ候え」
(山口道斎物語)
その耳打ちで、
「わざと騎馬をも召さず、手廻りばかりにて小浜へ達せられ」
(元和8年老人覚書)「二本松衆に道具持たる者は、半沢源内・月剣遊佐孫九郎弓持・一人、扨其外は皆抜刀」
(政宗記)
武装らしい武装をしていなかった義継たちであったが、輝宗拉致という、いちかばちかの賭けに出るのである。
だまし討ち、という常識ではありえない中間小者の軽口を信じてしまった義継たちの背景をもう少し掘り下げてみたい。
畠山義継は、伊達家と戦に至る前に、和睦交渉を行っている。
伊達家側は当初、「大内定綱に組したことは許せない。二本松を攻める」と強硬な姿勢を見せた。
戦を避けたい義継は、さらに懇望する。伊達家は和睦条件として「嫡子を人質に出すこと、杉田川―油井川間の5ケ村のみを安堵する」と提示する。これでは身上がたちゆかない、二本松領半分の召上げ、それもだめなら郎党だけでも本地安堵してほしい、とさらに義継が交渉するが聞き入れられない。
窮した義継は、ほぼ非武装で宮森に「不図掛入」(政宗記)、仮に切腹を申しつけられても仰せ次第、と全面降伏するのである。(ここで宮森は輝宗の陣所であることを再度強調したい)。
駆け込みは保護を求める行為であり、駆けこまれた側は駆け込んだ者を保護する慣習がある。駆込寺などにみられる慣習である。義継が突然宮森に「掛入」ったこととの類似を指摘しておく。
この「掛入」の結果、輝宗・政宗の合議を経て、掛入の翌日、義継の身上は保証された。和睦条件は
「生年十二歳の国王殿といふ子息を渡し給ふ、一ケ条にて相済けり」
(政宗記)
嫡子を人質に出すという、ただ一つの条件に緩和されたのである。
伊達側の強硬姿勢からの急な転換は、義継の心境に安堵だけをもたらしたのか。不安をももたらしたということはないだろうか――。ここは単なる想像である。
「山口道斎物語」では、上に記した伊達家の記録とはやや流れが異なる。
「嫡子を人質に出すこと、杉田川―油井川間の5ケ村のみを安堵する」ことに加え、「郎党の本地安堵」がまず輝宗から提示される。
義継は当初拒否して合戦を考えるも、家老の新城真庵らから、
「御譜代の大身小身ともに伊達へ心を通じ申すと風聞つかまつり候。その上、此方抱えの城々、もってのほか手詰まりなり。輝宗より再三四仰せ遣わさる、上は杉田川、下は油井川限りその内にて五ケ村を客人分に御取り、そのほかの城持ち舘持ちはただいまの如く、その城その館に居て、本知高一を取りて伊達へ奉公といい、首尾ばかりの事候上は、御同心遊ばされしかるべく候。ただいまも会津を御慕いなされ候へば、証人を遣わさらぬばかりにて、会津の旗下も同然の御事なり。」
と説得され、輝宗の出した条件を受諾して伊達に降伏を申し入れるのである。ただ、輝宗の条件は政宗の同意を得たうえで提示されたものではなく、義継が降伏を申し入れた後に、輝宗が政宗を説得する必要があった。
政宗の得心を受けて、義継は
「悦んで、天正13酉年10月7日未刻、二本松より不図小浜へ御越し、伊達安房守陣所へ御出」
使者を務めた成実へ礼を言い、輝宗へも礼を言いたい、と述べる。義継の訪問先が小浜の成実陣所であることが、成実の記述と異なっている。また、話が整った後の御礼参向であるにも関わらず、義継自身が「不図」小浜を訪問していることに違和感を感じる。
輝宗を拉致した畠山義継は、宮森から二本松を目指す。
不覚を取った政景・成実は、政宗に急の報せを遣るとともに、義継一行を追う。しかし、輝宗を人質に取られているので、容易に手出しできない。
伊達側は塩松領を制圧しており、二本松領との境界は阿武隈川である。
義継一行が阿武隈川を渡る前に、輝宗を取り戻さなければ――手出しをしなければならない。
当時の阿武隈川は高田に舟渡があった(山口道斎藤物語)。また、渡しを見下ろす場所に高田城がある。
手出しをするには、なんらかのきっかけがあった、と考える。
例えば、宮森城を出る、小浜の城下を通過する、峠を越える、渡河地点である、などの地理的要因である。
大河ドラマを始めとする創作作品では、阿武隈川渡河の地理的要因を取り上げ、輝宗・義継の死の現場を阿武隈の河原で描写することが多い。
現場の場所として記される地名は
と、資料によって異同がある。成実のいう10里は田舎里で、1里=6町≒654mである。
政宗は、
「とかくするうちに、二本松領へ近づきければ、注進したると見えて、人数夥しき川の向かいに馳せ集まる。」
(木村宇右衛門覚書)
と、現場から川が見えることを伺わせる言葉を残している。
しかし、現在「粟の巣古戦場」とされる現場は、阿武隈川から東へ小山を一つ越えた地点で、川は見えない。
現在の「粟の巣古戦場」が現場とすれば、とくにとりあげるべき地理的要因は見当たらなく、手出しのきっかけがあるとすれば、政宗の現場到着であろう。
現場が阿武隈河畔か、「粟の巣古戦場」かはさておき、成実が著作でぼかした政宗の現場到着は、政宗自身が
「驚き追いかけ見奉れば、件のごとし」
(木村宇右衛門覚書)
という言葉をのこしているように、確かなことに思われる。
輝宗の死を成実はこう書く。
「しかるところに取り巻き参り候内より、鉄砲一つ打ち候。打ち果たし申すべきよし、申す者もこれなく候えども、惣の者ども懸かり候いて、二本松衆50人余り打ち果たし、輝宗公も御生害なされ候」
(成実記)
下知するものは特にいなかったが、誰ともなく打った鉄砲をきっかけに、伊達勢は義継一行に討ちかかった。結果、義継を含む二本松衆50人余と輝宗は死亡した。
この鉄砲の音は二本松城にも聞こえた。
「二本松城の留守居に新城弾正おられ候ところ、鉄砲二放し急に聞こえ候」
(山口道斎物語)
不安になった新城弾正(真庵)らが物具して義継を迎えに高田の渡しまでゆくと、徒歩の味方が大息をついて、義継らの討死を報告する。物見を川向こうにやり、高田山の上の物見石から現場を見ると、算木を乱した如くに討死した二本松衆が見えた、という。
政宗の回想には、鉄砲の話はない。
「とかくするうちに、二本松領へ近づきければ、注進したると見えて、人数夥しき川の向かいに馳せ集まる。 かくてはかない難しと思うところに、成実を始め一門衆皆々我らの馬の前に乗り向かい、是非なし。捨て奉るほかなし。なにといたさん と申さるるほどに、ともかくもよりどころなき仕合せかな、 と言いければ、その色を見て、二本松衆ひしひしとおりいて、いたわしくも輝宗公を刺し殺し奉る」
(木村宇右衛門覚書)
「捨て奉るほかなし。なにといたさん」という成実たちに、「しかたない」と応える政宗。攻撃の気配を察した二本松衆が輝宗を刺殺する。
輝宗の刺殺は「元和8年老人覚書」にも見える。
「早二本松へも此の儀相知れ、人数を出し申すを、政宗見届け、きびしく追い懸け、輝宗共に打てと呼びかけ申され候えば、家来衆さすが手出し仕る者これなく候。されども事急になり候ゆえ、義継、突きかけ申され候小脇差にて輝宗を刺し殺し、その刀にて自害仕り候」
(元和8年老人覚書)
これを語った小浜の古老は元和8年に70歳であった。事件は彼が33歳のときのこととなる。政宗は「輝宗共に打て」と命じるが、家来たちは逡巡する。しかしいよいよ討ちかかるかに見え、義継は輝宗を刺殺して自害する。
輝宗は鉄砲を受けたのではなく、刺殺されたのである。