花押の系譜

この記事は、

戦国期伊達氏の花押について--伊達稙宗を中心に
大石 直正 東北学院大学東北文化研究所紀要. (通号 20) [1988.08]

を元に、戦国期伊達氏周りの花押のお話です。特に断りのない限り、花押の図版は上記論文からの引用です。
花押の模倣は、モデルとした花押を用いた人物へのリスペクトを示す傾向があるのだそうです。

1.「植宗の扇形」の世界

伊達稙宗花押第3型 伊達稙宗花押第4型 細川尹賢花押
伊達稙宗花押第3型 伊達稙宗花押第4型 細川尹賢花押

伊達稙宗の花押は、上記大石論文により六つの型に分けられています。、本項で取り上げるのはそのうちの第3型と第4型です。これは細川尹賢花押をまねたものとのことですが、左上部の扇型に注目してください。
同論文によると、この花押は天文初期―おそらく梁川城から桑折西山城へ居城を移したころに使われはじめ、天文の乱最中の天文14~16年ごろまで使われたものです。

伊達晴宗花押
第1型
伊達晴宗花押
第2型
伊達晴宗花押
第3型
伊達晴宗花押第1型 伊達晴宗花押第2型 伊達晴宗花押第3型

天文の乱で、父・稙宗と争った晴宗の花押です。
同論文は晴宗花押の第1型・第2型を、稙宗花押の第3型・第4型の模倣とし、同じく細川氏の系統の花押とします。
天文の乱に勝利した晴宗は、天文22年1月17日、家臣に一斉に知行判物を交付し(「晴宗公采地下賜録」)、この時に花押を改めました。それが晴宗花押第3型です。この第3型で目を引くのが、「地平の線」―下部にまっすぐ引かれた横線です。これは鎌倉公方家および古河公方家の系統の花押なのだそうです。
細川型から古河公方型へ。同論文は晴宗の決意をここから読み取るとともに、左上部の扇形に注目します。稙宗から受け継いだ扇形が残っているのです。

伊達輝宗花押 留守政景花押 石川昭光花押
伊達輝宗花押 留守政景花押 石川昭光花押

この扇形は、さらに晴宗の息子たちにも受け継がれます。
輝宗・政景・昭光の花押に同じ扇形があります。
ただし、石川昭光花押の下部は、佐竹氏の花押にそっくりとのことで、これは佐竹・伊達の両勢力に挟まれた昭光の両属性を示すとされます。

岩城親隆花押 黒川晴氏花押
岩城親隆花押 黒川晴氏花押

晴宗長男・岩城親隆の花押は扇形らしきものはあるが、はっきりせず、岩城氏固有の花押に近いとあります。
また黒川郡の国人・黒川晴氏の花押にみられる同様の扇形を指摘します。黒川氏は伊達・大崎の二大勢力の間に位置します。伊達氏傘下に入って忠誠を誓うとともに、独立した国人であることを示す花押、みずからを伊達氏入嗣になぞらえた花押と、同論文は解釈し、天正16年の黒川晴氏離反が伊達氏に与えた衝撃と効果に思いを巡らせます。

以上、冒頭に示した大石論文から、稙宗花押にみられる扇形についての要旨をざっくりとまとめました。
稙宗の子息でも、伊達実元・亘理元宗の花押に、この扇型は見られません。そのことに関しても同論文に考察がありますが、その紹介は項を改めます。

さて、ここにもう一つ花押を示します。

相馬義胤花押  
相馬義胤花押 三春町歴史民俗資料館 
平成24年度秋季展示企画 
「田村月斎と子孫たち」 チラシより引用


相馬義胤の花押です。
伊達稙宗の長女(屋形御前)は相馬顕胤に嫁ぎました。相馬義胤はその孫にあたります。
天文の乱で敗れた伊達稙宗は丸森に隠居し、相馬氏との仲を深めてゆきます。永禄2年小高を訪れた稙宗に勧められ、翌年相馬義胤は12歳で、伊達稙宗の末娘(越河御前)と婚姻します(『戦国相馬三代記』森鎮雄著)。
稙宗は自分の隠居領であった伊具郡南部を、相馬にゆずって死去し、ここに伊具郡を巡って伊達氏と相馬氏の領土問題が勃発。越河御前はこのころに離縁されたとされますが(同)、この相馬義胤の花押に「稙宗の扇型」があるように見えます。晴宗花押の第1型・第2型に似ているようにも見えます。

稙宗は、天文の乱の敗色が色濃くなったころから再び花押を替え、近衛稙家の花押にそっくりなものを用いるようになります。そこにはもはや、あの扇型は見えません。

伊達稙宗花押第5型・第6型 近衛稙家花押
伊達稙宗花押第5型・第6型 近衛稙家花押

しかし、相馬義植が使用したのは「伊達稙宗の扇型」でした。
河北新報こども新聞連載、千葉真弓「独眼竜政宗」に、相馬義胤が丸森城に眠る伊達稙宗の霊に「我らもまたあなたの血を引く子孫です」と呼びかけるシーンがあります。
上に引用した花押は田村月斎にあてた書状の花押で、チラシには年次比定が書いてありませんが、相馬義胤のこの思いをあらわした花押のように感じます。

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