この記事は、
戦国期伊達氏の花押について--伊達稙宗を中心に
大石 直正 東北学院大学東北文化研究所紀要. (通号 20) [1988.08]
を元に、戦国期伊達氏周りの花押のお話です。特に断りのない限り、花押の図版は上記論文からの引用です。
花押の模倣は、モデルとした花押を用いた人物へのリスペクトを示す傾向があるのだそうです。
伊達稙宗花押第1型 | 伊達稙宗花押第2型 | 上杉定実花押 |
上杉房定花押 | 上杉憲定花押 | 上杉顕定花押 |
伊達稙宗の花押は、上記大石論文により六つの型に分けられています。、本項で取り上げるのはそのうちの第1型と第2型。特に第2型は上杉顕定のものにそっくりです。これは上杉様の花押であり、この時期の越後上杉氏はみな似たような花押を使用しているそうです。
上杉顕定は関東管領家ですが、越後上杉家から養子に入っています。上杉顕定は長尾為景・上杉定実と戦って敗死しますが、この抗争は上杉顕定が越後守護上杉家の正統を復興するものであったとし、稙宗はその顕定に自分を重ね合そうとしていたのではないか、とあります。
実元の養父になる予定だった越後守護・上杉定実の花押は異なる形ですが、その解釈については言及がありません。
稙宗がこの花押を使用していたのは、おおよそ、居城を梁川から桑折西山に移すころまで。あるいは、陸奥守護に補任されるまでです。それまでの稙宗の立場は、実力はどうあれ一介の国人領主にすぎませんでした。
稙宗の子息には、この上杉型の花押を継承して使用している者がいます。伊達実元と亘理元宗です。
伊達実元花押(参考) | 伊達実元花押 | 亘理元宗花押 |
※伊達実元花押(参考)は「福島県史7」の「花押一覧」より引用
同論文によりますと、伊達実元花押は伊達稙宗花押第1型の変形、亘理元宗花押は伊達稙宗花押第2型にそっくりです。
実元花押が上杉型であるのは、越後守護上杉家への養子入が予定されていたゆえ、元宗花押は天文の乱の原因が実元の入嗣問題にあることへの強い思いがこめられているのではないか、と同論文は記します。
実元・元宗とも天文の乱終結後もこの花押を用います(※元宗には別タイプの花押もあり)。
亘理元宗花押(参考) |
同論文から引用します。
「稙宗は生涯の各段階ごとに、その政治的抱負を花押の形にして表現していたが、 子息たちにもそれを分担して敬称させ、全体としてその奥州王としての理想を表現し、かつ実現しようとしていたのではないかと考えられる。
そして実元や元宗たちは、天文の乱後も晴宗政権あるいは輝宗の段階においても、なおその花押の形を変えず、晴宗自身も次節で述べるように父の花押の一部分を継承している。これは右で述べたような稙宗の理想が、晴宗以後もなお全面的に否定されず、継承されつづけていることを物語っているように思う」
実元や元宗が分担した「理想」とはなんだったのでしょう。「稙宗の扇形」ほどの明確なメッセージを考え付くことが私にはできません。
あるいは「理想」ではなく、洞中を大乱に巻き込んだことへの「戒め」だったのでしょうか。
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