伊達成実が政宗から人取橋合戦の際に賜った「感状」としてよく紹介される伊達政宗書状写がある。
仙台市史 伊達政宗文書29。亘理伊達家史料1 (70)。当サイトにもリンクのとおり紹介しているが、ここにもう一度引用する。
さて今日、観音堂においての戦、敵を後ろになし、また荒井より助け来り候大軍と、貴殿小勢を以って合戦に及び、比類無き所に、却って大利を得られ、又もあるまじきと、耳目を驚かせ候。御辺一身の依り扱いに、諸軍を助け、悦ぶこと斜めならず候。然りといえども、家中に死人手負い数多有るべきこと、笑止の至り也。明日は、敵陣本宮へ、近陣為すべしの由、其聞こえ候。とてもかの地へ出でられなば、本望なるべし。伊達上野守政景へも、其の旨同意に申し付け候。恐々謹言。
(天正13年)11月17日亥の刻 政宗
御使者山路淡路殿※「亘理伊達家史料(北海道伊達市所蔵の政宗文書29の原本)では、書止文言は「恐惶謹言」。上の読み下しは仙台市史 政宗文書29の記載に従っている。
伊達成実の著作である政宗の伝記「成実記(政宗記)」諸本にもこの書状の趣意文が記述されるが、大きく3系統にわかれる。以下の引用は陣さんの [sd-script] 伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ から。陣さんに御礼申し上げます。
「成実記(政宗記)」諸本の中で、比較的目にしやすい翻刻本は〈仙台叢書「成実記〉と〈群書類従「伊達日記」〉、〈人物叢書 伊達資料集「政宗記」〉があるが、それぞれに特徴が異なり、現在伝わる諸本もこの三つのうちのどれかと共通のグループに分類できる。
①〈仙台叢書「成実記」〉のグループ
政宗文書29の趣意に該当する部分が「御口上にも」とあり、書状でなく山路淡路の口上として述べられている形に特徴がある。
山路淡路を拙者処へ御使者に而。御自筆之御書下さる御口上にも。
今日之扱比類無き候敵之後に而合戦致し。敗軍仕らぬ事前代未聞之事に候。畢竟其方故に大勢之者共。相助候定而手負死人数多之有るべく候。殊に明日敵の方より本宮近陣之由。聞かせられ候誰ぞ遣わされ度思召され候得共。誰にも余に之無く候間。太儀乍ら本宮へ入り申すべく候。伊達上野遣わされ候由仰下され候。
又淡路申候は。今日之合戦に味方何と仕候哉。引添候て参り候事罷り成らず。両人是非無く敵に紛れ罷越候。敵方に而其様子は存ぜず。何れも相談には本宮を近陣成られ。二本松籠城之衆を引除かるべく談合具に承日暮漸敵之陣を逃参候由申上候に付。只今斯くの如く仰せ付けられ本宮は籠城たるべく候間。其支度申すべき由申され候
盛岡中央公民館「政宗記」・宮城県立図書館「政宗公御軍記」・国史叢書 軍記類纂「正宗公軍記」・国会図書館「中納言政宗卿御軍記」がこのグループに属する。
特筆すべきは、仙台伊達家編纂の伊達治家記録や、嫡子がないため絶家の危機に瀕した亘理伊達家が仙台藩に提出した天和の訴願の「亘理訴状」がこのグループであること。
天和の訴願は成実の死没から30数年後。まだ成実や政宗本人を直接知る人もいたであろう。そのような時期に公式記録として採用されたことは、成実記諸本の関係を考える上で注目に値する。
また、成実の働きを「前代未聞之事」と表現しているのも特徴である。
これら諸本のうち、盛岡中央公民館「政宗記」・宮城県立図書館「政宗公御軍記」は慶長5年までの記述で終わるが、国会図書館「中納言政宗卿御軍記」・仙台叢書「成実記」はそのあとに「右条々伊達安房成実の御作候哉」という一文が入り、附属資料的な章や逸話的な章が続く。
「右条々伊達安房成実の御作候哉」以降は成実の筆ではなく、付加された部分であることが示唆される。
この付加部分がないものを「グループ①の1」、付加部分があるものを「グループ①の2」とする。
「グループ①の1」は盛岡中央公民館「政宗記」・宮城県立図書館「政宗公御軍記」、 「グループ①の2」は国会図書館「中納言政宗卿御軍記」・仙台叢書「成実記」となる。
②〈群書類従「伊達日記」〉のグループ
群書類聚「伊達日記」の当該部分。
夜半比山路淡路御つかひとして御自筆の御書下され候。
今日敵の後にて合戦仕敗北仕らず候事聞召され、伝へたることもなく不思議の様子是非に及ばず候。一身の働にて大勢のものども相助候。定て家中手負死人数多之有るべき由。明日は本宮へ近陣の由きこしめされ候間、大儀ながら本宮へ入申さるべく候。誰も余人これなく候間仰付られ候。伊達上野をも相添らる、の由御文言に候。
淡路申され候は、今日身方にはなれ申候衆二人敵に紛居候処に明日は本宮を近陣成られ、二本松籠城の衆を引除かれるべき由承候。日くれ候て敵陣を逃去参候而申上候付仰付られ候。本宮は籠城成されるべく候間、其支度申すべき由申され候
政宗文書29の趣意に該当する部分について「口上」であるという説明が消える。あわせて成実の働きの表現が「前代未聞之事」から「伝へたることもなく不思議の様子是非に及ばず」に変わる。
加賀市立図書館「伊達記」・京大谷村文庫「伊達日記」がこのグループ。
③〈人物叢書 伊達資料集「政宗記」〉のグループ
人物叢書 伊達資料集「政宗記」の当該部分がこちら。
上でみてきたグループ①・グループ②が 一つ書き候文 の体裁で書かれていることに対し、これは擬古文の物語調である。
山路淡路を使者にて、自筆の御下文されけるを頂戴しけり。
「抑今日観音堂に於て戦ひ、敵を後になし荒井より又観音堂へ助来りける大勢と、貴殿小勢を以て合戦に及び、比類なき処却て大利を得名誉の働き、又有間敷と耳目を驚す、御辺一身の扱に依て、諸軍助り喜ぶこと斜ならず、尓と雖ども家中に手負死人数多あるべきこと笑止の至りなり、明日は敵軍本宮へ近陣なすべき由其聞あり、迚も彼地へ出られなば本望たるべし、伊達上野政景へも、其旨同意に申付候、十一月十七日亥の刻、成実参る政宗」
とぞ書れける。
去程に淡路語りけるは、本宮本陣と聞へけること叶はずして、敵地へ紛れ参りければ、明日は本宮近陣有て、二本松の籠城を引とらんと、敵陣にての評定、彼二人承及夜に入此方へ逃帰り、其旨申上ければ其を聞玉ひての事なり。明日より本宮は籠城にも候べき、其心得肝要なりと申
初めにみた仙台市史 伊達政宗文書29。亘理伊達家史料1 (70)の当該部分は、人物叢書 伊達資料集「政宗記」と文言がほとんど同じである。政宗の感情をあらわす表現が増え、グループ①・グループ②はこれに比べると事務的な印象を受ける。
また、グループ①で「右条々伊達安房成実の御作候哉」以降に書かれていた逸話部が特にことわりなく後半に登場し、逸話の数がさらに増える。
「成実記(政宗記)諸本の関係
ここまで見てきたことを図に整理した。陣さんの [sd-script] 伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ によって、小手森合戦の開始時刻が成実記諸本によって異なることが知られているので、それも図に記入した。
横軸に慶長5年までの本文より後、「右条々伊達安房成実の御作候哉」とその後の逸話部の有無
縦軸に「人取橋感状」の口上文言の有無
をとった。
左下グループ②諸本は、「右条々伊達安房成実の御作候哉」以下の逸話部を欠いているので、右上のグループ①の2よりも先に分岐して伝わったのではないかと考えられる。また、仙台から見て遠隔地に伝来した諸本であり、それにともなって表題が「政宗」でも「成実」でもなく、「伊達記」「伊達日記」となる。
このグループでは加賀市立図書館「伊達記」のみ小手森合戦の開始時刻を「午の刻」としている点がグループ①の1諸本と共通であり、このグループ内では早くに成立したことを示唆する。
右下グループ③擬古文群は、共通する逸話の収載があるため、右上と平行して、あるいは右上を元にして成立したのではないか。「人取橋感状」の口上文言はないが、これは擬古文形式物語化にともなう変化であり、左下パターン②群とは独立した変化と考える。
天和の訴願・伊達家治家記録と、二つの江戸時代前期の「人取橋感状」の記述表現を、当時の亘理伊達家の公式見解と仮定したとして、左上グループ①の1盛岡中央公民館「政宗記」・宮城県立図書館「政宗公御軍記」の記述表現はこれと一致する。「御口上に」という文言があるのも、戦場での伝令事務連絡にふさわしく、このグループ①の1群が、現在伝わる諸本の中では一番、原「成実記」に近いものと判断する。
一方、グループ③擬古文群に記載されるエピソードの中には、玉ノ井草調儀、会津黒川での新国上総の逸話など、前半編年史部分に他のグループになく、かつ伊達成実でなければ書くことがむずかしいと考えられるエピソードが含まれる。
これは上図の縦軸横軸では表現できず、グループ③の成立過程はグループ①・グループ②とは別個に考える必要があるだろう。ただし、この群の「人取橋感状」の記述については以下に記すような点があるため、「伊達成実でなければ書くことがむずかしいエピソード」をどう考えるかは解釈の余地があるであろう。
「人取橋感状(写)」の成立考
伊達成実が政宗から人取橋合戦の際に賜った「感状」としてよく紹介される伊達政宗書状写、 仙台市史 伊達政宗文書29。亘理伊達家史料1 (70)。
現在北海道伊達市に伝わるこの文書を展示で確認すると、一見して「紙が新しい」という印象を受ける。また仙台市史で「恐々謹言」とされている書止文言は「恐惶謹言」と記されている。政宗は成実に対して「恐惶謹言」を用いることはない。
またこれは感状ではない。書状の内容は戦場での事務連絡である。だが、事務連絡にしては不自然なほどに政宗の感情表現が多く、また同じ戦場にいるならば省略してしかるべきはずの地名その他の情報が多い。妙に読み手に対して具体的・説明的である。
グループ①群が書くように、使者が政宗の簡潔な書状をたずさえ、「委細口上」にて伝えるのが、この時代の事務連絡のありかたとして自然だ。
この伊達政宗書状写(政宗文書29)自体が非常に物語的なのである。藩祖政宗と亘理伊達家初代成実について、二人(両家)の関係をこの文書だけで説明できるようなつくりになっている印象を受ける。
現実に、本稿前半で見たように、この伊達政宗書状写(政宗文書29)は、グループ③擬古文系統の記載ほぼそのままである。
事務連絡文書である以上、受給者にとって保存の優先順位は感状よりもかなり下がるため、伊達成実が人取橋合戦時に政宗から受け取った原文書は早い段階で失われたのではないか。それはおそらく成実が出奔した時であろう。
「亘理訴状」の時点ですでに見られるように、「人取橋合戦」の成実の功名は、亘理伊達家を支える支柱であった。 士気高揚のために、諸本の中から擬古文軍記物語で感情に訴える力が強い本の記述を選んで「復元」したのが、現在伝わるこの伊達政宗書状写(政宗文書29)ではないだろうか。そしてその時期は幕末明治のころではないかと考える。亘理伊達家が自らの物語を補強しなければならない危機に瀕したのは、天和の訴願の際と幕末明治のころの2回であり、天和の訴願の時点ではグループ①が採用されているからである。紙が新しいこととも整合的である