成実出奔

※ 改稿中。文章がおかしいのはそのせいです。 

 文禄の役後、伏見に住まいしていた成実は、突如政宗のもとから姿を消す。年月は定かでない。文禄4年(1595)の豊臣秀次失脚後に、重臣たちが秀吉あてに出した誓詞には名を連ねているからそれ以降なのは確かである。「伊達政宗卿伝記史料集」では慶長3年(1598)説を採るが、その典拠となる治家記録には「年月不明」とある。また、「世臣家譜」は文禄4年出奔としている。
いずれにせよ、秀次事件決着の後、秀吉死亡のころまでの間に政宗のもとを去ったらしい。

理由や動向には諸説あるが、できるかぎり典拠資料をあげつつ順に紹介してゆく。

出奔理由

 出奔理由について挙げられているものは下記のとおり。順に紹介する。

  1. 所領や席次に対する不満のため
  2. 独立大名をめざしたため
  3. 政宗に天下を取らせるための工作のため
  4. 借金をとがめられて
  5. 羽田右馬介に勧められ、徳川家へ仕官しようとした

所領や席次に対する不満のため

とりあえずの定説。功多くして報いの少ないことに不満をもったため、とされる。

政宗の南奥攻略に関する功に対し、報償が少なかったことに不満をいだいた、というのが理由の一つとされる。
政宗はなみいる希望者を退けて成実に二本松を与え(伊達政宗文書)、小田原参陣時には後事を託している。
小田原参陣時、黒川留守居中に受け取った岩城常隆からの書状では「二本松殿」と独立大名クラスの書札礼で宛名が書かれる。
この頃までの成実に不満を抱く要素は少ない。
政宗の岩出山転封にともない、成実は二本松から角田に移る。単純に比較はできないが、「二本松33郷」→「角田16郷」であるから、減封には違いない。が、伊達領全体が減らされているのだから、やむをえない措置であることは、十分成実も理解していたはずである。
このときにほとんど減らなかったと推測されるのは、片倉景綱ぐらいであろう。
ただ、成実の二本松領は伊達家が惣無事令を受け取る前に得た所領であるため、奥羽仕置の際、二本松の帰趨はなかなか定まらなかった。
成実も二本松安堵のためにかなりの運動を行い、それに伴う出費も多額であったことが想像される。政宗はこの頃、奥羽にやってくる上方勢のために臨時の徴収を行っているが、それに満額応じたのは、成実と田村宗顕のみであった(小林清治「秀吉の奥羽仕置」)。成実・田村宗顕は政宗を通じて、石川義宗は石田三成らに対して、自らの所領安堵運動を展開したが、それらはいずれも実らなかったのである。

そこで注目されるのが、報償としての「名誉」である。
政宗は身分にかかわらず能力のある家臣を取り立てたが、かれらの所領や扶持は増やしても、伊達家内での席次については低く留め置いた。
一方で成実は、「自分こそが伊達家中のトップである」という意識を強く持っていたと思われる。
黒川留守居は成実の面目をおおいに果たすものであったろう。
それが、遅くとも文禄4年には、成実の席次は石川氏に次ぐ第二席となる。
文禄4年8月の重臣連署状での筆頭は石川民部太輔義宗、成実は二席である。以後、「席次」という名誉に関し、成実――亘理伊達氏は石川氏を強烈に意識することになる。
「仙台武鑑 巻1」に収載されている「万治3年書上」には、亘理伊達氏が一門第二席となった由来として、
「実元は天文の乱の関係で越後へ行けなかったので、伊達の第一席になりました。今、石川大和の方がうちより上座なのは、牢人分の事情がいろいろあったので、成実の代より客座になったからです」(意訳)
とある。
また、政宗が石川氏に「伊達」姓を下賜しようとしたところ、成実が
「『伊達』を名乗るならば、自分が第一席でないと承服できない」
と意見したという伝承もあり、新参の石川氏の下にいなければならない、ということに強い不満を抱いたことが想像される。しかも連署状の筆頭が叔父の昭光ならばまだしも、子息の義宗であったことも成実のプライドを傷つけたことであろう。

なお、政宗との血縁でいえば、留守政景(水沢伊達家・一門第三席)も石川昭光と同じく叔父にあたる。
政宗が石川氏を筆頭に置いた理由は詳らかではないが、血縁に対する配慮としての席次厚遇は後の岩城政隆の処遇にも見られる。
石川・岩城の両者に共通するのは、政宗を頼った時点における困窮である。
留守政景・成実、そして政宗の大叔父である亘理重宗(涌谷伊達氏・一門第四席)は血縁という影響力のほか、所領・所有兵力ともに大きいものを持っていた。血縁を理由にかれらの頭を抑えようとする施策だったのかもしれない。

独立大名をめざしたため

奥羽永慶軍記に、「所領・席次への不満説」に続いて記される。伝聞を元にした軍記であるので、信憑性よりも、
「成実が伊達家を去った」
という話を聞いた奥羽の人々が考えたこと、ととらえる方がよいだろう。

政宗に天下を取らせるための工作のため

「郷土わたり 60号」の「『虚々実々』成実公の出奔  藤倉良雄」の説。
出奔は諸国をめぐって工作するため。
Wikipediaによると「蒲生軍記」にもその趣旨の記載があるとのこと。

借金をとがめられて

山岡荘八が「伊達政宗」のなかで採用。

羽田右馬介に勧められ、徳川家へ仕官しようとした

「仙台志料 伊達成実高野山に遁る」にある説。

出奔前後の成実の動向

「世臣家譜」によると朝鮮から帰った成実は「伏見」にいた、とする。
しかし、秀次失脚以前の伊達家・および豊臣家の拠点は、秀次が在城する「聚楽」である。政宗も当時の正月行事は聚楽の伊達屋敷で行っているし、京都で客死した遠藤文七郎も聚楽にほど近い「室町」の旅亭で亡くなっている。成実も聚楽にいてしかるべきなのである。
ところが成実も、成実室(玄松院)も、帰朝後暮らしたのは秀吉の隠居城たる「伏見」の城下であった。成実は京都にいなかったのだ。(一日もかからない道程とはいえ、当時伏見を「京都」とは言わない)
ここからは

  • 政宗――秀次
  • 成実――秀吉

というラインを想像できる。

次に出奔時期であるが、先に書いたように、文禄4年(1595)説と、慶長3年(1598)説がある。
文禄4年の典拠は「世臣家譜」、そして文禄4年8月の重臣連署状以降、成実の足跡が途絶えることであろう。
慶長3年(1598)説の典拠は、「治家記録」慶長3年の項に石川氏の角田拝領の記事があり、「これより前」に成実出奔があった、という記載であろう。
もう一つのヒントは「成実記」に、文禄5年(慶長元年)閏7月13日の慶長伏見地震の記載があることである。秀吉が木幡山に城の再築したときの耐震対策の記載があり、身近に見聞きしたことを想像させる一方、出奔前であれば当然体験したはずの伊達屋敷の被害についての記載がない。

出奔後、どこにいたのかにも諸説あるが、一応の定説は

  • まず、高野山に隠れたこと
  • 徳川家に仕官を試みたが、政宗の妨害にあい、ならなかったこと
  • 相模の国、糟谷にいたこと
  • 関が原合戦の前、上杉景勝から5万石で誘いを受けるも断ったこと

である。
帰参は慶長5年(1600)。白石城の攻防に、石川昭光の陣より参加し、政宗にもそのときお目見えしている。

出奔後の成実の動向を「郷土わたり51号」に記されている資料をもとに紹介すると、

<文禄4年出奔。同行者は青木藤太、志賀弥七、常盤隼人、羽田小吉、杉村九左衛門、岡半兵衛、岡九市、小形織部ら。まず浅野弾正の客分となる。秀吉の死後、大久保忠隣を通して徳川家康に仕えようとするが、ちょうど政宗の娘(五六八姫)と家康の息子(忠輝)の縁談進行中でかなわない。そこで大久保忠隣は自領の相模の国、糟谷の寺に成実をかくまう。慶長5年、関が原合戦の直前、直江兼続が成実を養子とし、成実は糟谷を抜け出すが、大久保忠隣があわてて関を閉ざしたので出国できなかった。そこでやむをえず太田にいたところ、石川昭光と片倉景綱が政宗の内意を受けて迎えにやってきたので、大久保忠隣は甲冑をはなむけとして成実に与えた>

 原典の紹介がないのでなんの資料かはわからないが、他の資料などから判断するに、伊達市に存在するという「亘理物語」が原典のようである。なんでよりによって浅野長政、とか、つっこみどころはありますな。浅野はこのころ政宗と絶交しているので、腹いせに成実をかくまったかな?

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