伊達家世臣家譜による成実の伝記

※ 原文は漢文ですが、管理人が読み下し文にしています。

 実元の子、安房(初め藤五郎、又兵部と称す)成実。
天正13年貞山公の時、塩松城主大内備前定綱叛く。成実、公と謀りてこれを撃つ。この年の冬、会津盛興・佐竹義重・岩城常隆の三将、一同仙道本宮表において軍す。公対陣の時、成実群を離れ、敵軍猛兵の間に在り。既に危急、奮激戦功有り。これ人取橋の役というなり。
14年二本松城降る。成実移り保つ。安達郡二本松・信夫郡八丁目33邑、これを領す。
16年6月、佐竹義重・会津義広、仙道郡山に陣す。これより18年に至る、数戦功有り。
17年6月、公、会津芦名平四郎義広と摺上原において戦い、義広敗積し、白河に走る。これにおいて、公、城を会津黒川に移す。
18年、公、関白秀吉公に小田原において謁す。成実を黒川城の留守となさしむ。この年、大崎葛西一揆蜂起す。蒲生飛騨守氏郷・浅野弾正少弼長吉、これを攻む。公、これの前峰となる。公において氏郷に讒する者あり。氏郷疑い、これにおいて成実質となり、氏郷の陣に在り。氏郷、京師に適い逮し、二本松にてこれを送り、成実ついに帰る。
19年9月、公、岩出山城に移る(これより前は米沢に在り)の時、伊具郡16郷を賜り、角田城に移住す。
文禄2年朝鮮の役に従う。帰朝して後は伏見邸に在り。
4年、成実ゆえありて伏見邸を去り、紀州高野山に退去す。留守政景・石川昭光ら、桑折点了斎・蟻坂丹波を遣わし、再三これを規すれども聞かず。ここにおいて、その長臣・羽田右馬助実景に命じ、成実の家臣に角田を去らしむ。成実すでに所在知れず。ここにおいて公、屋代勘解由兵衛景頼(時に岩出山城代なり)に命じ、成実の家臣に角田を去らしめ、もし命を承らずばこれを討ち取る。景頼兵を率い、角田に到る。実景私宅に據りてこれを拒む。死者30余人。余は威に当りて出奔す。景頼ついに角田城を収むという。成実後に相州小田原槽谷邑に退去す。東照廟(家康)姑、廩米100口(或いは1万石という)を給う。公、これを訴え、故に止む。
慶長5年関ヶ原の役。上杉景勝5万石(或いは30万石という)をもって成実を招き、もって公と鋒を当たらしめんと欲す。成実辞してこれを受けず。この年7月、石川昭光、留守政景、片倉景綱ら諷喩してこれを帰す。成実の公に謁見するは、この月なり。白石の役有り。命を奉り、石川昭光の軍に属す。この時、廩米100口を給う。
6年3月、公、を賜い、成実および亘理美濃重宗に麾下の兵を指揮さしむ。
7年12月、公、またを賜い、亘理城(片倉備中景綱旧城なり)を賜う。明年これに移住す。
11年6月、公の第1女(五郎八姫と称す)越後少将忠輝に嫁す。成実、命を奉り、駕を送り、台徳廟(秀忠)に謁す。幕下に佩刀(国光)および時服を賜う。
元和元年5月、大坂の役に従い、命に麾下の火器隊士(徒小姓組)を指揮し、首7級を獲る。
2年5月、世子(義山公という)数書を賜う。この月、成実馬薬および馬医書を献ず。
3年9月、命を奉り、世子婚礼の事を預かる。婚礼畢る3日、世子に従い、備前宰相輝政卿の第に詣づ。輝政卿、佩刀を賜う。この月、公及び世子、婚成をもって将軍家に謁す。成実これに従う。台徳廟(秀忠)および大猷廟(家光)に拝謁し、時服(あるいは小袖10領、羽織2領という)を賜う。
5年5月、公、江戸城の修に会い、公に代わり江戸に奉使す(この時、大條実頼これを副し、他数人これをあたう)。この時、帷子5襲を賜う。6月、成実・実頼世子に従い将軍幕下に拝謁す。幕下これを為すことに慇懃の言を賜う。9月、公、親書および?魚を賜う。11月、将軍幕下に拝謁し、時服を賜う。
7年2月、江戸に奉使の命あり(これより先、将軍家、白金を賜う。故に公、成実を遣わし、これを拝謝するなり。成実はたして発つや否や、未だ詳らかならずという)。
8年9月、最上家亡ぶに会う。衆600人を率い、野辺沢氏の居城を収む。
寛永5年、田2000石を加増す(宇多郡の内、10邑)。
10年正月、石母田大膳宗頼を介し、兵馬の数の録の書を献ず。けだし、歩騎およそ1169人、馬155匹という。
11年2月、公を若林の別荘において饗す。成実、公に請い、花を挿してもって、水仙花を剪り、長く梅花を剪り、短く以って献ず。公、山礬これ弟、梅これ兄と語ると誦え、親しく水仙花を断ちこれを短くす。梅花を継ぎにこれを長くして以って挿す。能9番あり。公、時服10領・寝衣1領を賜う。成実、馬(黒毛)1匹・白綿100屯・板物30端を献ず。この夜、成実宅火を失い、ことごとく焼亡す。公、書を賜い、書院を営造なす。(その家伝にいう。公を饗するの日、怪異あり。肯山の時、実氏、命を奉じそのことを記す。この上、公またかつて聞くところの事を告ぐという)
寛永14年、義山公(忠宗)の時、封内洪水に会う。将軍家、白金5000貫目を賜い、これを周す。
明年5月、成実群臣に代わり、謝恩の使いを江戸に奉る。時に年71、将軍家接待特に優しく、閣老列坐し食膳を賜いこれを饗す。事おわり、閣老、軍中戦伐の談を請う。数刻を経て、皆これを嘆賞す。将軍家幕下時服20領・羽織10領を賜う。成実、拝謝し、まさに出んとす。閣老起ちてこれを送ること数歩。この日、将軍幕下(大猷廟)、これを聞くを欲するなり。障子を隔ててこれを聞き、深く嘆賞するという。
正保3年2月、老いを告ぐ。
成実、数の戦功あり。枚挙にいとまあらず。事は成実自選するところの政宗記(貞山公戦伐の事を記す。後に肯山公の覧に供すという)につまびらかなり。
これより先、天正中に人取橋の役あるに、最も大功あり。公、書を賜い、これを感賞す。
14年7月二本松城を賜う(これより先、伊達郡大森城を賜う。今、大森城をもって片倉小十郎景綱に賜うという)。食邑38000石なり。
慶長7年12月、公、親書をもって、亘理郡において居館を賜う(治を去ること7里余)、かつ山野・浜を附け(およそ180石の分となす)、有余の地となす(本禄に入れずという)。成実、懇ろに請いていう。本禄108石を以って官に納め、有余の地を以って本禄に入れ、朱印を賜え、と。公、命じていわく、敢えて辞すなかれ、と。成実、再び請いていわく、後世子孫何を以って証となし、以って君の恩沢を保つや、伏して請う、前請の如くに、と。公、その請を可とす。これにおいて成実、佩刀(宇佐美長光)を献じ、以って恩を謝す。
寛永5年、また新地2000石を賜う(宇多郡の治を去ること13里余)。かつ山野(16石5斗の分となす)を賜い、有余の地となす。貞享2年正月肯山公の時におよび、官にその有余の地(亘理宇多両郡)を納む。成実の孫・実氏これを憂い、状をつぶさに官に請いて欲す。桂山世子(肯山公第1男扇千代君。貞享2年8月23日夭す。年5歳。法名桂山元久香林院と号し、江戸白金紫雲山瑞聖寺に葬る)の喪に会い、果たさず。
寛永20年、義山公の時、田を増し、かつ経界の余田を加え、合わせて20000石の禄となす。
成実、かつて天流刀術をその臣荒川日向秋秀に学び、その伝を極む。
成実、賜物を受くこと、枚挙すべからずという。(貞山公かつて成実の第に臨み、茶を饗す。公、成実に謂いていわく、老来磁器を用いがたし、請いて華物の茶器を与えん、と。後に岩城文琳の茶器を後府に探し、佐々若狭某をしてこれを賜わしむ。成実、固辞していわく、後府の宝蔵、臣のあえてあたるところにあらず、と。若狭これに応じていわく、公、足下のために宝器若干品を出す、と。かつ謂いていわく、寡人成実と齢を同じくす。および武勇の才能もまた相若す。忠貞また郡ならず。なんぞ独り富貴を私し、これを与えずということありや、宝器を共にせんや、公の意、このごとし、足下辞すなかれ、と。その後、公、成実の催す茶に会す。臘月、公、その茶室に臨み、始めて賜うところの茶器を用うなり。成実、名馬1匹そのすぐ100金、白金30枚を献じ、以って君恩に謝す。成実卒後、その男・宗実、その茶器および佩刀一口を以って義山公に献ず。佩刀はすなわち貞山公の遺物、しこうして義山公の成実に賜うところのものなり。)
成実子なく、貞山公第9男を養いて嗣となす。

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