一 17日の晩は、政宗公も岩角へ引き上げられ、夜半頃に山路淡路を拙者ところへ御使者にて、御自筆の御書下され、御口上にも
「今日の扱い比類なく候。敵の後ろにて合戦いたし、敗軍つかまつらぬこと、前代未聞のことに候。ひっきょうその方ゆえに大勢の者ども、あい助かり候。定めて手負い・死人、数多これあるべく候。ことに明日、敵の方より本宮近陣のよし、聞きなされ候。誰そ遣わされたく思し召され候えども、誰も余にこれなく候間、大義ながら本宮へ入り申すべく候。伊達上野遣わされ候」
よし仰せ下され候。また淡路申し候は
「今日の御合戦に味方何とつかまつり候や。引き添え候て参り候ことまかりならず、両人是非なく敵に紛れまかり越し候。敵方にてその様子は存ぜず。いずれも相談には、本宮を近陣なされ、二本松篭城の衆を引き除かれるべく、談合つぶさに承り、日暮れてようやく敵の陣を逃れ参り候よし、申し上げ候につき、ただ今かくのごとく仰せつけられ、本宮は篭城たるべく候間、その仕度申すべき」
よし申され候えども、にわかのことにて心がけもまかりならず、18日未明に本宮へ入り申し候。
「働き遅く候間、物見を□候や」
と承り候えば、
「夜の内より付け置き候」
よし申し候。されば火の手を見候間、
「陣を移しか」
と存じ候ところに、物見馬にて参り、
「佐竹・会津・岩城衆、引き除かれ、結句前田沢も引き除き候」
よし申し候につき、前田沢へ人を遣わし見させ候えば、一人もこれなく引き上げ候。政宗公本宮へ御出でなされ、御仕置仰せつけられ候ところ、数多御前に居り候ところにて、濱田伊豆申すことには
「昨日の合戦、中村八郎右衛門、比類なき働きつかまつり候。八郎右衛門ゆえに、味方50も60も助かり候」
よし申し候。その時八郎右衛門、何とも御意これなきに、刀を抜き敵20騎切り申し候よしにて、ことごとく打ち損じ申し候を御覧なされ、御加増くださるべきよし御意にて、なお塩松知行下され候。
「もしまたこの上にも、敵働き候ことはかりがたき」
よし御意候て、岩角に両日御座なされ候えども、何事なき間、小浜へ御帰りなされ、御越年候こと。