天正十年丁亥の年、政宗二十一歳のとき、最上・大崎へは軍なれども、安積表は先何事なく静謐の分なり。かゝりける処に、会津より大内備前、成実処へ申しけるは、
「四本ノ松一宇打明ける事別に非ず、会津より警固の内三人の家老衆申しけるは、四本の松の抱何共成難く、其子細を申すに、政宗公近所の岩角を召廻り見玉ひけるは責め給ふべきか、扨御近陣ならん、たとはゞ近陣なりとも、二本松への通路は不叶処に、況や彼地落城ならば、小浜を引除けることは思ひもよらず、去程に只今見合除て能侯、其義ならば会津の松本図書介跡絶て明地なり、折節彼地を才覚して家老分になさんという故に引除ければ、所領の事は申すに及ばず、当坐命つなぎの扶持にても玉賜らずして飢死に及ぶ、さればとよ会津の家老衆、某を除かせけること今思ひ当りて候に、政宗公岩角より押廻し、四本の松迄責給ひ、両城どもに落城ならば、某ことは云に不及、警固の者迄残なく滅亡なれば、各引附度は候へども、我等を捨置候ては、会津への不覚を気遣ひ、爰を以て某を諌め一同に立除ける故、申合せほ相違とみへたり、何かと申すに運尽已に政宗公御心に背き奉り、此有様に罷成て候程に、此上御手前の御馳走にて、伊達へ蒐入少分の御心付をも下され、召使はれなば有がたく侯べし、尓りと云ども深々御心に障り、一身までにて御承引如何と存じ、弟の片平助右衛門にも御忠節を申合せけり、是を以て御赦免下されける様に、偏に成実を頼む」
と申す。是に仍て成実其品々を、片倉景綱を以て申ければ、
「大内こと召出し玉ひ尓るべきや、其子細を如何に」
と申すに、
「清顕死去し給ふ以来、第一田村にしかとしたる主もなければ、田村の家区々なること其隠れなし、尓るに大内備前是を見合、四本の松は地下人迄も譜代所なれば、本意をふくみ仙道の大将を語り付、備前軍の発起と成て、二度御敵をなさんこと是一つ、次に助右衛門領地片平と申は、敵地の高玉阿久箇島の南にて、助右衛門忠を申す程ならば、彼の二ケ所も持兼会津へ引除、即ち御手に入らん、尓らば則高倉・福原・郡山は、元来引続き御方なれば、其れへ亦片平ともに右の三ケ所差添、押廻し御方ならば、軍もなしよからん、去程に備前をば召出し給ひ、恩をも下され如何有るべきぞ」
と申しければ、政宗
「大内こと一度敵となり、口惜けれども去々年、輝宗死去し給ふ折を見合せ、佐竹・会津・岩城、各一和して本宮までの働き無念なれば、此意趣に仙道への軍、再乱なくして叶はず、幸ひ助右衛門も忠節ならば、大内をも赦免あるべし」
と宣ふ。故に備前方より使の者に、其旨申し含めて相返しけり。されば大内引除ける以来、四本の松をば白石若狭拝領なり。尓るに備前伊達へ降参なるを、若狭に成実語りければ、「惣じて四本の松は地下人迄も、大内譜代なるに、備前領地の住居若干気遣の処に、御家を望み一身の悦び斜めならず
」と申す、成実も万へ引合、御耳には立ける迚御坐は終る。尓る処に其後会津より、大内申しけるは、
「一義御他言迷惑なり、其こと悉く洩聞へ今会津に於て、専ら申し触此体ならば已に身命脱難き」
と申す。成実申しけるは
「争か他言候べき、尓りといへども御辺の跡小浜は、今白石若狭居城となるに、御辺伊達へ望のこと若狭に隠し候ては、疑心のことも如何と思ひ、其趣きを囁きけり、若しや彼者内通も有けるやらん」
と申し遣はす。尓るに其後若狭、成実に申けるは、
「大内某を頼み懇望申度とて、会津より内通ありと云、右より手の悪きことどもを申しはやすとは思ひけれども、先若狭内通の実正も知らざる処へ、聊尓を申し候ては如何あらん、第一は政宗会津へ心深く御坐に、其旨亦も通用なれば、大内は生害と成て、会津より伊達へ忠の絶べきことを思ひ合、彼者忠を継んがため是非なく堪忍」。
成実若狭に申しけるは
「何れにてあれ、大内降参に究まりければ、参るべし、惣じて手前の勝手よりは、伊達の為めを存ること第一の心得なり」
とて、互に行別れけり。如何なれば此こと若狭手を悪くすといふに、大内備前名誉の者にて、四本の松の居城のときも、田村は近所なれども清顕への楯をつき、佐竹・会津の加勢をも請ずして、数年自分に軍を取て合戦にも度々勝利を得、比類なきこと政宗も知し召処に、備前伊達への降参ならば、本領と云ひ若や四本の松を返し給はらん、左もなきためには中々若 狭仕南にて降参させなば、よも四本の松をば返し給ふまじ、尓らざれば会津にて生害をなさせんとの思案にて、右に申す品々なり。斯様なりしことども故、伊達への降参も其年中は相延、大内も会津を気遣して同極月暇を乞ひ、片平へこそ引込けり。
←黒川月舟死罪被逃事へ戻る
→大内備前手切之事に進む
「政宗記 目次」に戻る