同四月十二日に石川弾正、若狭領地西といふ処へ亦草を入、其身も自身しこみに出、内より早朝に出ける者を一両人討て取り、是を城中にて知合、出ける人数と弾正取組城内へ追込、其より取付攻けるに、鉄砲頻りに小浜へ聞へ若狭早蒐なれば、弾正見合引上げるを蒐付取組、若狭勝利を得、頸二三十討取物別れなり。成実も二本松にて鉄砲の音を間、夫より早蒐候へども、阿武隈川を隔て遠路故、遅く蒐付、手筈には逢はず候へども、参りたるを若狭悦て宮森へ呼人、殊の外なる馳走なり。されば弾正、本は四本の松の城主久吉の家中にて元来大内備前と古傍輩なり。然るに久吉兼ての沙汰悪きに依て、家中一同にさたち何れも身構をして久吉を申出で、其れより弾正親摂津守は田村清顕へ手寄、扨大内は伊達を守る。尓るに伊達父子の間、中野逆心を以て家中乱れけるとき、後の備前定綱も田村を頼み近所といひ分て奉公の処に、右にも申す田村右馬頭・片平助右衛門両人の郎等共喧嘩の出入に付、大内清顕へ恨みをふくみ、数年楯をつきけれども、弾正事は跡に替らず田村への奉行なり。されば其後四本松の一宇政宗手に入給ふに、弾正知行も皆四本の松の内也。去程に清顕、田村をば末には政宗へ渡し給ひて、御息女に御子誕生ならば、其を田村殿
にしまいらせ給ふべきとの約束ななり。故に弾正も私ならず知行付に政宗へ奉公せよと、清顕宣ひ奉公に附。其外寺坂山城・大内能登を始め四五人、本久吉家中今亦田村へ奉公の者ども、何れも政宗へ付置給へり。是に依て白石若狭手前の同心にと宣へども、弾正をば直に使ひ給ひ、本領は申すに及ばず加増迄賜はる。尓りと雖ども其跡政宗へ敵をなしける故にこそ、末の身上大事に思ひ、其上政宗其砌御夫婦中悪かりけるを、御舅母儀北の上恨み給ひ、相馬義胤への内通を弾正悉く存の前にて、伊達を背き相馬へ傾き、天正16年の四月十二日より、手切を致し、其より以来猶も伊達へ背きけること。
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