会津より働之事

同四月五日の夜、大内備前伊達への蒐入降参のこと会津へ聞へ、会津の衆須賀川へ云ひ合せ、安積表へ打て出働きの由其間へあり。故に片倉景綱に其旨告知せければ、時刻を移さず居城を打立、二本松へ来て信夫の勢を触けれども、俄かなれば一人も参り合ず、景綱と成実計りの手勢を以て、取物も取合ず、急ぎ本宮へ打出で、高倉へも警固を越んとしけれども、折節勢もなかりければ、成実私領八丁目の者どもを、漸く二十騎余りに鉄砲五十差添つかはしけり。されば、高倉の城高倉近江も同十七日に本宮へぞ来りける。彼近江本ほ二本松の譜代にて、会津・安積の案内委く存知者なり。去程に
「敵明日の働きは何方、扨勢は何程あらん」
と尋ねければ、「会津も須賀川も境目の人数はくつろがざれば、両所をかけて漸く千騎には過ぎ候まじ、亦明日の働きも押通本宮迄にはよも侯まじ、高倉迄に候らはん」
、と申す。そこにて景綱・成実、
「其儀ならば明日は敵の働きにしたがひ、御方は観音堂へ打て出高倉へ助け入るべし、然りと雖ども其は見合せ次第なり、自然本宮迄の働きならば、御方は内へ引込出合ざるときは、敵は定めて観音堂に備を立ん、若亦下へ引下なば猶も願ふ処なり、縦へば積りの外なりとも其ときは人数を出し、此方より仕かけ敵を町口まで引付、せり合を始め、成実郎等羽田右馬介に先手をさせ、跡をば景綱取組、成実は合戦に構はず、西の脇を観音堂へ押切る様に勢を繰出す程ならば、敵の足跡悪くならん、其ときは高倉より跡を突切候べし、明日は軍有ばいかやうにも大利をえ、高倉は山城なれば何方へも、敵の働きみへける程に、高倉への働きならば、城の西へ遠火を上べし、亦本宮へ働くならば東に上よ」
と相図を申合、近江をば高倉へこそ返しける。然る処に明十八日の卯の刻に、城の西へ遠火を上たり。扨ては高倉への働きなりとて、観音堂の下へ人数を出しければ、亦東へ上たり。是は又本宮へとみへける程に、出たる勢を引上申合の兵儀になさんと申けれども、一度出向ける軍兵引返すこと、早其日の競後れければ、中々爰にて防戦を遂んとて、備を取景綱・成実は観音堂へ打上、軍配をしければ、敵段々に働き来る。其中に鹿子田右衛門一騎、真先蒐て乗抜け、足軽四五十人召連進みけるを、成実郎等石川弥兵衛に、
「其身出向、鹿子田を此方へ引かけ、摺々と来りなば、景綱・成実は下へ引下げ候べし、其れに乗りて猶も来り候はゞ、合戦に取組むべし、急ぎ出向」
と申付、羽田右馬介足軽を三十余人引添へければ、弥兵衛出向鉄砲を打合、敵味方の境をそろそろと乗分、鹿子田を釣出し此方へ引上参りける。其振舞中々戦場の見物事、何れ
も言語に及ばず。右衛門も始めは一騎なりしが、後には十余騎に、足軽百余人に成て来りけるを、景綱・成実観音堂の下へ降しければ、勝に乗て右馬介・弥兵衛の者ども追立観普堂迄来りけるを、其にて勢を放しければ、案の如く敵崩れけるに、右馬介下人文九郎とて、其年十六歳なりけるが、鎧武者を突ければ、取て返し文九郎を斬倒し、歩者三四人返し合せ、頸を取らんとせし処を、右馬介乗込其者二人物付して、一人が頸を取れば敵引除ける故、文九郎頸は取れざるなり。されば人取橋より此方へ越ける勢は備をほごし足並にて橋を逃越。尓るに橋向なる敵入替、味方亦守返されけるに、前高生勘五郎とて政宗小姓なりしが、其頃勘気を蒙り、成実を頼み備に居たりけるが、彼者乗廻し引除横馬になりける処を、鎗持走りかゝり馬の大股を突と、一同に肩のねり合へ鉄砲当て、馬を打返され勘九郎歩立となりて、鎧を脱ぎ下人に預け、手鑓を取て鎧武者一騎突て落し、下人に首かゝせ高名して、其頸成実にみせけるを、政宗へ其旨申ければ、比類なしとて相済、勘五郎手柄の目見なり。角て味方の軍兵、本の観音堂に追付られしを、羽田右馬介・牛坂左近・石川弥兵衛返合、亦敵を追返し、人取橋迄追付、雑兵ともに五十六人討取、御方も十四人の討死にて、物別して勝鬨を取行ふ。されば十七日に申合の遠火不違則は大勢討取べきを、火の上やふ相違に付、僅の勝負敵の仕合未残多きは其已なり。而して後煙火の相違を尋ねければ、
「先今日の働きを知せんが為め、西に上たり」
と申す、
「其働は昨日より知たるに依てこそ、相図をば申し合せけれ、入ざる自作」
と申しけれどもかひぞなし。会津衆も一働にて、片平助右衛門老母を証人に取帰陣なり。惣じて人質取んがため会津より出けれども、一働きも侯はでは、四方への聞へいかヾと思ひ、右の通りと相みへたり。景綱も同月二十一日迄、本宮に在陣なれども敵帰陣なりと聞からに、同二十三日に米沢へ罷り帰り候事。

石川弾正草入之事へ戻る
田村家老衆訴訟之事に進む
「政宗記 目次」に戻る

Page Top