一 同月26日、政宗公小浜城へ御馬を移され候ところ、二本松義継より我等親実元へ仰せられ候はPage Top
「代々伊達を頼み入り身上あい立て候えども、近年会津・佐竹・岩城、田村へ御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨みの儀候て、会津・佐竹御味方をつかまつりたく候。御同城いたし、後々の御首尾まで輝宗公をもって
相馬へ御弓矢の時は、両度御陣へ参り候て、御奉公つかまつり候あいだ、身上別儀無くあい立てられ下さるように」
とお頼み候について、親実元右のとおり輝宗公へ申し上げ候えば、相馬御弓矢のみぎりお越し候も、御覚えなされ候。あわせて
「今度大内備前御退治のみぎり、小手森両口の合戦において、一口は義継先手にて候。大場の内へ御働きのみぎりも、二本松篭人数を出し端合戦のあいだ、大内同然の敵」
と思し召し候条、二本松へ御働きなさるべきよし仰せ払いなされ候。しかりといえども、種々お詫言につき、
「左様に候はば、南宮・杉田川限りに明け渡され、中5ヶ村にてあい立たれるべし。その上御息人質に米沢へ差し越されるべき」
よし仰せられ候よし。義継御申し越し候は
「南なりとも北なりとも一方召し上げられ下さるように」
とお詫言に候えども、まかりならず候につき、輝宗公御陣所宮森と申す所へ、10月6日駆け入られ候。