一 10月6日の晩……

一  10月6日の晩、輝宗公、政宗公の御陣屋へおいでなされ候て、御台所へ家老衆へ召し寄られ、義継お詫言の様子、御訴訟なされ候。我等若輩に候えども召し加えられ候事は、御使者親つかまつり候あいだ、
「義継への御使つかまつるべき」
よし、輝宗公仰せつけられ候。我等申し上げ候は
「若輩にて万事十方無き体に候。かようの大事の御使仰せつけられ候の儀、迷惑」
のよし、しきりに申し上げ候えば、
「実元扱いの首尾に候あいだ、御使つかまつるべし。御差し引き万事輝宗公なさるべき」
よし仰せられ候あいだ、是非に及ばず御意にまかせ候。義継我等をもって御訴訟には、右の如く
「北なりとも南なりとも、一方を召し上げられ下さるように」
とお詫言に候。まかりならず候につき
「左様に候はば、ただ今まで差し置き候家来ども乞食いたすなり候こと迷惑のよし。左様に候つつもともとの知行を下され召し使わるべき風伺公申し上げ候上は、切腹をつかまつり候とも、御意を背くまじき覚悟つかまつり参り候あおだ、何分も御意次第」
のよし申し上げられ候につき、あい済み候。義継御申すには、
「身上あい済みかたじけなく存じ候条、お目見え申したき」
よし仰せられ候あいだ、そのとおり申し上げ候ところ、もっとも御参会なさるべきよし御意に候て、義継我等陣所へ7日の八つ時分お出で、かれこれ時刻移り蝋燭立て候て、会い御申しなされ二本松へお帰り。8日早天に義継より御使預り候て、
「我等宮森へ参るべく候。輝宗公御稼ぎをもってあい済み候。この御礼をも申し上げたく候。また見回り申す支度をも申したき」
よし仰せられ候あいだ、輝宗公御陣所へ我等伺候いたし候ところ、伊達上野そのほか家老衆数多宮森へ参られ、
「二本松まで落居めでたき」
よし輝宗公へ申し上げ、よきついでに候あいだ、義継我等ところへ仰せ越され候おもむき申し上げ候えば、
「早々お出で候ように御左右申すべき」
よし御意に候条、そのとおり申し上げ候えば、義継輝宗公御陣所へお出で候。義継伴の衆、高森内膳・鹿子田和泉・大越中務3人、御座敷へ召し出され候。和泉参り候時、義継へ耳付きに何とや申し候あいだ、御座敷につき候に、輝宗公御下に、我ら・上野も居り申し候。御雑談もこれなくござ候ところ、御門送りに御立ち、内にて御礼なされ候。その左右には御内の衆、居り候。捕り候こともならず候や、表の庭までお出でなされ候ところ、道一筋にて両方竹から垣にて、お脇を通るべきようもこれなく詰め候ところへ、お庭までお出でなされ候。我等・上野両人ばかりお庭へまかり出で候えども、通り申すべきところこれなく、御後に居り候ところ、義継手を地へつき、
「今度いろいろ御馳走過分に存じ候。さように候えば、我等生害なさるべきよし承り候」
よし仰せられ、輝宗公の御胸の召しものを、左手にて御捕らえ、脇差を御抜き候。かねて申し合わすとみえ、義継伴の衆、後近く居り候者ども、7-8人輝宗公の御後へ回り、上野・我等押し隔て引き出し申し上げ候。脇を御先へ通るべきようこれなく、
「門を立て候え」
と呼び候えど、左様にもしあいかね、急ぎ出で候あいだ、是非に及ばず、各後を慕い参り候。小浜より出で候衆は武具を以って早や打ち出で候。宮森より御供候衆は、武具を着け候隙もなく候まま、素肌にて候。打ち果たし申すべきよし申す衆もこれなく、あきれたる体にて取り巻き、10里余、高田と申すところまで御供申し候。政宗公は御鷹野へ御出で、御留守に候ゆえ、御野へ申し上げ御帰り候。二本松の道具持ちは半沢源内と申す者一人、遊佐孫九郎と申す者弓持ち一人。そのほか皆抜刀にて、輝宗公義継取り巻き参り候。しかるところに取り巻き参り候内より、鉄砲一つ打ち候。打ち果たし申すべきよし、申す者もこれなく候えども、惣の者ども懸かり候いて、二本松衆50人余り打ち果たし、輝宗公も御生害なされ候。政宗公もその夜は高田へ御出馬なされ候。各家老衆申し上げ候は、
「まず小浜へ御引っこみ、御吉日をもって、二本松へ御働きしかるべき」
よし申し上げ候につき、9日未明に小浜へ御帰りなされ候。輝宗公御死骸その夜小浜に御供申し候て、長井の資福寺にて御死体御葬礼なり。遠藤山城・内馬場右衛門、追腹つかまつり候。8日の晩、義継お尋ねなされ、方々切り離し候を、藤をもってつらね、小浜町の外へ、はりつけに御上げ、数多番代をあいつけられ候。義継抱え方地、本宮・玉の井・渋川、8日の晩に、二本松へ引きのき候。米沢へ人質に差し越されるべきよし仰せ合わせられ候、国王殿と申す12になり候子息を、譜代の衆守り、義継従兄弟に新城弾正と申す者、かねて覚えの者に候。かの者武主になり篭城いたし候。

「成実記 目次」

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