一 天正15年正月16日、大崎へ仰せつけられ、御人数大将には、伊達上野介・泉田安芸両人仰せつけられ、その外、粟野助太郎・長井月鑑・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡・舘助三郎・浜田伊豆を軍奉行となし、小山田筑前を御横目となし、小成田惣右衛門・山岸修理、その外諸軍勢共遠藤出羽城にて候。松山へ着陣仕られ候。大崎において伊達へ御奉公は、氏家弾正・湯山修理・一栗兵部・一迫伊豆・宮野豊後・三迫の宮日向、いずれも岩出山近辺の衆に候。松山よりは手越に候條、この人数へ打ち加えるべき地形にこれなく候。松山において伊達上野・浜田伊豆・泉田安芸、その外いずれも寄り合い評定には、今度大崎御弓矢月舟御奉公申され候はば、幸四竈尾張も申し寄られ候條、岩出山へも間近く候てしかるべき儀に候えども、黒川月舟逆意仕られ、郡の城へ入り、伊達勢押し通り候はば、もろ山に籠もる衆と言い合い防ぐべきよし存じ候よし、相見え候間、働きの調儀何と候半と評定候。遠藤出羽申し候は、
「新沼の城主・上野甲斐は、私婿にて御当家へ御忠節の者にござ候間、師山に押さえを差し置かれ、中新田へ押し通られ候とも別儀あるまじき」
よし申し候。上野申し候は、
「左様に候とも中新田20里の道に候。敵の城を後に南北差し置き、押し通り候こと気遣い」
のよし申され候えば、泉田安芸所存には、
「上野殿久しく我等と間しかるなく候。その上今度大崎御弓矢の企て、我等申し上げ、御人数相向かわれ候はば、月舟は上野殿の舅に候。かれといい、これといい、今度は、御弓矢御精入るまじきよし存じ候。出羽申すところもっともに存じ候。氏家弾正岩出山在城仕り、伊達勢の旗先を見ず候はば、力を落とし、また義隆へ御奉公申すも計り難く候間、師山には押さえを差し置かれ、打ち通られしかるべき」
よし申し候。是非に及ばず中新田の働きに相極まり候。