一 氏家弾正は、……

一 氏家弾正は、伊達の御人数遣わさるべきよし御意候えども、今において村押さえの煙先も見えず、通路不自由ゆえ、何方よりの注進もこれなく、今日今日とあい待ち、正月も立ち候間、朝暮気遣い候ところ、2月2日松山の軍勢打ち出で、川を越え、先手の衆だんだん師山の前を打ち通り、新沼にかかり中新田へあい働き候。下新田と申す城は、義隆奉公にて、城主葛岡監物、そのほか加勢の士大将には、里見紀伊・谷地森主膳弟八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部・黒沢治部、この者ども籠め候て、伊達の人数中新田へ押し通り候はば、一人も通すまじきよし、から言を申し候えども、さすが多勢にて打ち通り候間、出るべき様もこれなく、押さえも置かず候て、押し通り候。あとの師山の城へ士大将に、古川弾正・石川越前・葛岡太郎左衛門・百々左京亮籠め置き候。川南には桑折の城に、黒川月舟籠もる。城主飯川大隅という者なり。両城道をはさみ候ゆえ、伊達上野・浜田伊豆・舘助三郎・宮内因幡、400騎余にて師山の広き畠にあい控え候。先手の人数、中新田近所より押しかけ候内より、南條下総と申す者、町旋輪四五町出で候ところを、先手の人数一戦つかまつり、内へ押し込め付け入りにいたし、二三の旋輪町構まで放火つかまつり候。下総本丸へ引き籠もり堅固に持ち候。敵の城共あまた打ち通り候條、音を気遣いに存じ、小山田筑前下知つかまつり、惣手を引き上げ、段々にまといをあい立て候。氏家弾正はにわかの働きにて、中新井田までとは存ぜず、取るものも取りあえずまかり出で、付け入りにつかまつり、方々焼き払い、引き上げ候間、伊達の人数へも押し加えず引き上げ候。その頃日も短く、ことに深雪にて、道一筋に候間、伊達の人数急に引き上げ候こともならず候て、7時下りになり候。下新井田衆も通り候勢を、通るまじきよし申し出候とも、存じ出ず候。人数を追い入りて通り候。上野・浜田伊豆人数へ打ち添うべきよし存じ候ところ、後の人数と引き上げ候間、師山よりまかり出で、二重の用水堀の橋を引き候ゆえ、通り候ことならず、新沼へ引き通り候あとにて、下新井田衆と合戦のところ、切所の橋を引き候よし承り、諸軍勢足並み悪しく候えども、小山田筑前覚えの者に候間、引き返し戦い候ゆえ、大崩は無く候。筑前返し合い敵を追い散らし、歩者一人脇へ逃げ候者を物付けつかまつるべきよし存じ候て、その者を追いかけ、14ー5間脇へ乗り候ところに、深田の上に雪降り積み、平地のごとく見え候ところ、追いかけ馬をふけへ乗り入れ、馬さかさまになるゆえ、筑前2ー3間に打ち抜き馬放し候。筑前馬放し手綱を取り、引き上げんといたし候とも、かなわず候ところ、敵見合い、取って返し筑前を討たんとかかるを、手綱を放し、太刀を抜き、切り合い候。一人二人にてもなく、多勢のことなれば、敵後ろへ迫り、片足を切って落とされ、即ち倒れ候。さりながら太刀を捨てず切り合い候。老武者のことにて、軍は長し、息を切り、打ち出す太刀も弱り候間、四竈が若党走り寄り、首を取らんとつかまつり候ところを、太刀を捨て、引き寄せ、脇差しを抜き、真ん中を突き通し、両人同然に伏候を、あとより参り候もの、首を取り候。敵方の者ども、川より南に控え候えども、軍破れ、前は川をも越えず居り候いしが、味方負け色になり候を見合い、川を越え、下新井田衆へ加わるゆえ、日暮れかかり、筑前は討死、味方敗軍つかまつり、数多討たれ候。切所の橋を引かれ、新沼へ引き籠もり候間、軍勢ども籠城いたし候。

「成実記 目次」

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