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輝宗の葬儀・埋葬・墓所に関するいろいろ

輝宗の遺骸は10月9日晩、小浜に納められた。
惨劇から1日以上が経っていることになる。

政宗は事変を受けて当日に高田に出陣し、二本松を攻める意思を見せたが、老臣の諫言により、9日未明に小浜に戻っている(貞山公治家記録)。
してみると輝宗の遺骸は8日から9日午後まで高田の陣中にあったものであろうか。

此夜 受心君の尊骸を小浜城に入奉る。終に信夫郡佐原村寿徳禅寺に於て寿徳禅寺に於て火浴し奉る。資福寺虎哉禅師導師なり。覚範寺殿と号す。御遺骨を羽州置賜郡長井荘夏刈村慈雲寺資福禅寺に葬り給ふ。日不知。
(貞山公治家記録 天正13年10月9日条)

信夫郡佐原邑寿徳禅寺に於て火葬し、羽州置賜郡長井荘夏刈村慈雲寺資福禅寺に御廟を築て御遺骨を蔵め奉る。資福寺虎哉禅師導師たり。奠茶仏事、寿徳寺昌室和尚。
(性山公治家記録 天正13年10月8日条)

信夫郡佐原村(福島市)の寿徳寺で火葬に付され、遺骨は夏刈(高畠町)の資福寺に埋葬された、とある。

関係地図
※クリックで拡大表示。地理院地図に加工。

福島市佐原 寿徳寺と慈徳寺

輝宗を荼毘にふした寿徳寺は、小浜城から約40km離れている。大森から猪苗代へ向かう土湯街道を進み、吾妻山へかかる手前の山すそである。遺骸を運ぶのに2日はかかったであろう。
小浜での火浴を避けたのは、攻略まもない地であったからであろうか。米沢まで運ばず、米沢への道からもはずれたこの地が火葬地に選ばれた理由はわからない。伊達氏ゆかりの寺院、ということであれば、小浜からより近い位置に川俣の頭陀寺、伊達郡の諸寺も考えうるが、選択されていない。
輝宗の葬儀の記録は残っていないが、性山公治家記録には、資福寺虎哉和尚の秉炬法語・寿徳寺昌室和尚の奠茶法語が収録されており、火葬に伴う葬儀が、おそらく寿徳寺で営まれたと考える。虎哉和尚が夏刈の資福寺から佐原の寿徳寺まで来たとすれば、これにもやはり数日を要する。
寿徳寺は政宗とともに岩出山に移り、さらに仙台に移る。この時政宗は、輝宗を開基の檀那とし、松音寺第八世喜州詮應和尚を招いて寺院を建立した。輝宗の位牌は仙台の寿徳寺に祭られている。
上記のとおり、寿徳寺昌室和尚が輝宗の葬儀にあたって導師の1人を務めてもいることから、輝宗が生前から寿徳寺の手厚い保護者であったことは確かであろう。ただ、「伊達輝宗正月行事」の年頭の礼に、寿徳寺の記載はない。
輝宗の火葬については、その死の異様さから、しばしば陰謀論を付会されるが、当時火葬は決して珍しいものではなかった。輝宗の火葬骨はおそらく骨壺に納められ、埋葬されたであろう。

寿徳寺の移転後、無住となっていた寺は、寛文年中に再興された。福島市佐原寺前9の慈徳寺である。陽林寺の末寺となっている。
現在、佐原の慈徳寺には、輝宗の首塚と称する五輪塔(上部のみ)が残る。
「福島市史 原始・古代・中世」によると、

ところが、慈徳寺の記録には、このような寺歴は一言もふれていない。むかし、信夫の慈徳寺殿が開基した真言宗の寺であったが、衰微して無住であったのを、寛文年中羽州米沢の曹洞宗林泉寺の役僧一空雲浦和尚が中興して曹洞宗に改め、陽林寺末となったものとしている。
何故、仙台に移った寿徳寺がそれであることを明示していないのであろうか。前領主との関係を、故意にかくした好例ではなかろうか。

では、輝宗との関わりは一時忘れられていたのか、といえば、そうではないようだ。
江戸期に記された信夫・伊達両郡の地誌に記載された伝承をみてみよう。

使用したテキストは、岩磐史料叢書収載「信達一統志」 、古郷之忘形見収載「奥州信夫・伊達二郡略年代記」・「奥州信夫郡佐原村根元記」である。

「信達一統志」 の慈徳寺の項には、輝宗との関わりの記載はない。

「奥州信夫・伊達二郡略年代記」には以下の記載がある。

政宗にげて信夫佐原の寺にて父照宗の死がいをほうむりけり。

昔しは下の大畑に寺有。この節伊達家照宗の御はか石塔は地に築入候由。御位牌は陽林寺に納り候由。

仙台様より、古墓所と又御家中方一門親類へ之尋状共は、宝永・享保年迄、度々来り候由。され共、何も印無之故、用立不申候。

「奥州信夫郡佐原村根元記」 の方はもう少し詳しい記載がある。

政宗は無據、父政宗の御死がいを佐原に持来り、ぢとく寺にてほうむりけり。追ばら切の侍十九人有之。御家良のはかに梅を植けり。
大石塔四本立、御位はいも有けるが、後、中興雲浦大和尚上の山を引て寺場を築給ふに、此石塔共を地形に埋給い、御位はいは小倉村陽林寺江納給ふ由。
其後、正徳・享保・元文迄も、度々御尋の状等、足軽衆等参候也。度々通便有ては費成と申て、中興雲浦大和尚陽林寺江納給ふという。尤、寛保年間にも冬藤田町六郎兵衛と申人、仙台様より御頼に候と書状遣し、仙台の御石堂を尋候に付、其節ぢとく寺の手付の人々四五人にて寺の南、清宇右衛門持分の畑、からう梅と申所など、二三ヶ所ほりて見申候へ共、炭と大石は多分有之候所、石堂の印何も無之故、右記し事一向無之と六郎兵衛へ返状仕申候。先年より仙台御城内には佐原の引寺有之由に風聞有之候。

又、仙台様の御はか所は寺より南と申せ共、さだかに知る人なし。


輝宗の墓所があるという伝承はあるが、場所はわからない。寺は中興の時に北側の山の上に移り、輝宗の石塔は埋めたという。そのため、輝宗の墓所は今の寺の南側であろう、と2-3ヶ所掘ってみたところ、炭と大石はそれらしきものが発掘されたが、石堂はなかった、ということになろうか。
輝宗の位牌は陽林寺に納めた、とあるが、それは雲浦大和尚の方便のようにも読める文章である。

伊達輝宗首塚

輝宗首塚の紋

現在、「伊達輝宗首塚」とされているものは、慈徳寺本堂横の愛宕堂の裏にある大石である。案内板には、

火葬跡に、もとは五輪の塔であったと思われるが、現在は二輪塔のみ残る。宝珠に伊達家の略紋「笹に雀」が刻まれている。古来人々、『首塚」と呼び伝えてきた供養塔なり。 
平成13年6月吉日 宝珠山慈徳寺二十五世 祖峰一之誌

とある。
慈徳寺のパンフレット「佐原の山寺へようこそ」(平成24年11月版・国井一之・2014年6月28日、本堂前にて入手)には、

ご遺体の火浴を慈徳寺で行う。伊達家は灯籠二対建立。関ケ原に負れた上杉家は米沢に減封。福島・信夫は上杉領。仙台に移った伊達家は灯籠を埋める。最後の灯籠を埋めるとき、上三輪を残し、愛宕堂脇の巨石に載せた。伊達家家紋『竹に雀』の略紋あり。

とある。「寺の南」とする地誌の伝承とは異なっている。「『竹に雀』の略紋」が刻まれているのが風輪であり、かつ菱紋であることに違和感を感じる。
初めに引用した「古郷之忘形見」(昭和59年)収載の地誌を校訂した橋本邦男は、慈徳寺の24世住職であり、詳細な注記をしているが、愛宕堂裏の現在の「首塚」には触れておらず、明治期の地誌「信達二郡村誌」の佐原村の項にも輝宗に関わる記載はない。
一方、昭和45年発行の「福島市史 第1巻」には

佐原の慈徳寺に伊達輝宗の首塚と称されるものがある。

との記載がある。

慈徳寺本堂のすぐ下に、「種まき桜」と呼ばれる桜の古木がある。昭和45年天然記念物に指定された際の案内板では樹齢200-250年とされていたが、平成21年の案内板では樹齢300年以上とされる。
風の人:シンの独り言(大人の総合学習的な生活の試み)-季節便り2012年の桜の頃⑤~慈徳寺「種まき桜」 から引用する。

 内容での違いは、先に樹齢が200~250年とされていたが、300年以上と案内される。確かに、昭和45年からは、約40年が過ぎている。
福島市ホームページでは、この樹齢が450年とされるが、それとかかわる解説が、新しい案内板に見える。それは、「伊達輝宗の御遺骸を一晩安置された小浜城から運び込まれたものとすれば」という仮定があれば、それから450年になるという事らしい。

「からう梅」の場所は、「奥州信夫郡佐原村根元記」には「寺の南」としかないが、平成21年に、旧佐原小学校跡地(旧林泉寺木戸口)に、「家老」を遠藤基信とする案内板が設置されている。なお、Satobatake // さとばたけ〈since1749〉 慈徳寺「家老の梅」(林昌院木戸口跡) によると梅は現存していない。筆者も2014年6月28日に訪問したが、桜ばかりで梅は見当たらなかった。

※ 「奥州信夫・伊達二郡略年代記」「奥州信夫郡佐原村根元記」を翻刻・自費出版した橋本邦男氏は、慈徳寺24世住職・小学校教員を務めた郷土史家である。
※ 平成13年「伊達輝宗首塚」、 平成21年「家老の梅」の案内板の文章を著したのは、慈徳寺25世住職 國井一之(祖峰一之)氏である。
※ 本項を書くにあたり、下記のサイトを参照した。御礼申し上げます。

高畠町夏刈 資福寺

輝宗の遺骨は夏刈の資福寺に埋葬された、と冒頭に引用した治家記録にある。埋葬の日付は知られていない
瑞鳳殿のような祖廟形式の御霊屋は、豊臣秀吉の豊国廟を嚆矢とするもので、輝宗の埋葬に採用されたとは考えづらいが、性山公治家記録に、

資福禅寺に御廟を築て御遺骨を蔵め奉る。

とあるのは、政宗~綱宗の葬儀記録に影響されたものであろうか。

夏刈の資福寺跡には、輝宗の墓のほか、九代伊達政宗(儀山)と正室紀氏、輝宗に殉死した遠藤基信の墓とされる五輪塔がある。写真を見ると、いずれも平坦地に墳丘を伴わない五輪塔と、それを囲む石柵があり、手前に石灯籠がある。石柵と石灯篭の形式がいずれもよく似ているので、石柵と石灯篭は同時期に整備されたのだと思う。
少なくともこの石柵と石灯篭の整備時は、輝宗・遠藤基信の五輪塔も、九代政宗夫妻のものと同じく、供養塔としての意識を持って整備されたものであろう。寺の中に大檀那の供養塔があることは自然なことに感じる。

輝宗の五輪塔については、「第18回えみし文化ゼミナール 資料集「山形県内の石造五輪塔雑見」(川崎利男 2007 えみし学会)に細かい記載があるので引用する。

その中の輝宗墓といわれるものは、高さ88センチ、水輪は球形であるが、安山岩で他の部分は凝灰岩である。異例なのは、風輪がなく団形の空輪が火輪にすっぼり入るように火輪上部にそれを受ける穴がつくられ、火輪は軒幅3センチと薄く、極端な反転を示している。これとよく似た笠の反転を 示すものに天正7年(1579)銘の白鷹町鮎貝常光寺の層塔がある。輝宗が不慮の死を遂げたのは天正13年(1585)である。


第7図 高畠町夏刈の傳伊達輝宗墓(上記川崎報告より引用)

伊達輝宗五輪塔

この塔にみられるように、笠が極端に反転するのは16世紀後半から17世紀前半の石塔に多いようである。この五輪塔も・変形ながらその頃の年代が推定される(第7図)。

川崎報告では触れられていないが、同地にある遠藤基信の墓も、写真を見る限り、火輪の傘の反転という特徴を持っているように見える。なお、風輪はあるが、空輪が欠失しているように見える写真とそうでない写真の双方が見られるので、空輪は固定されていないものであろうか。
小説等の創作作品で、遠藤基信が輝宗の墓前で殉死する描写がよくあるが、性山公治家記録には「覚範寺殿御廟の側に葬る」とあるばかりである。

なお、 儀山政宗夫妻の墓はこの夏刈資福寺跡にあるもののほか、東置賜郡高畠町竹森443の野手倉塔ノ峯にあるのが明治37年に発見されている(高畠町観光協会webサイト まほろばの里 たかはた>観光スポット>儀山政宗公の墓(野手倉墓所))。この野手倉墓所の儀山政宗夫妻の五輪塔についても上記川崎報告に記載されている。

輝宗が深く帰依していた夏刈の資福寺は関東十刹に数えられる名刹であり、寺院城郭であった。2丁四方に二重の土塁と二重の堀を持ち、字切図と遺構を重ねると堀形・土塁などがよく重なるという。
輝宗らの墓がある伊達家墓所は南西端にあり、内堀によって寺域と区画される。性山公治家記録に「資福禅寺に御廟を築て」とあるが、廟堂を伴っていたかは不明である。
資福寺館の西には、夏刈館がほぼ隣接し、両館は密接な関係にあったといわれる。(山形県中世城郭遺跡調査報告書第1集 置賜地域)

米沢市遠山 覚範寺


政宗は翌天正14年に、輝宗の菩提寺として遠山村に覚範寺を建立した。
遠山は館山のある斜平丘陵の東麓にあたる。山を登れば、愛宕山および羽山であり、覚範廃寺の他にも多数の寺院が過去に存在、あるいは現存している。

性山公の為めに置賜郡長井荘遠山邑に伽藍を創造せらる。覚範禅寺と号し、山を遠山と称す。即ち資福寺前住虎哉和尚諱宗乙を請して開山初祖として住持せしむ。
(貞山公治家記録 天正14年 此年条)

政宗君 御父性山公の為めに寺を羽州置賜郡長井荘遠山邑に建て給ひて遠山覚範禅寺を号し、資福寺虎哉和尚を請して開山とし給ふ。寺内に医国院・撑月菴・保福菴を建て、殉死三人の牌所とせらる。
(性山公治家記録 天正15年条)

覚範寺は伊達家の移封に伴って、岩出山、ついで仙台に移った。
米沢の覚範寺は廃寺となっており、昭和62-63年に発掘調査が行われた。以下、「米沢市埋蔵文化財調査報告書 第26集 覚範寺」(米沢市教育委員会 平成元年)に基づいて、その成果を紹介する。

この発掘調査では、字名「覚盤寺」「門前」「御伊勢林」を覚範寺跡と比定して調査を行っている。
調査地域内には建物があったとみられる平坦地、A~Fの6地点がある。
うち、一番規模の大きいF地点を本堂・庫裏跡と推測しているが、詳しい発掘がなされたのはA・B・Dの3地点である。

覚範寺
<「米沢市埋蔵文化財調査報告書 第26集 覚範寺」p5の図を加工>
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A地点には礎石の抜き取り痕とみられるくぼみが、平坦面のほぼ中央に六角形を有するように検出された。一辺約二間(3.6m)の六角堂を想像する。
B地点からは、平坦面緒ほぼ中央に、墓壙と礎石群・雨落ち溝と思われる溝が検出された。円形状の土壙墓の上に、九尺四方に切妻風の屋根の建物(墓堂)が想定される。墓堂正面の石段を降りるとA地点へ続くと理解される参道がある。
D地点の西南コーナー部に墓壙がある。基壇は方形のマウンドでその中央にレンズ状に掘られた土壙があった。ここからは多量の木炭を火葬骨が出土している。ただし、周囲の土に焼成痕はなく、他所で火葬した遺骨を埋納したものである。D地点南側縁辺部には、一字一石経塚がある。複数の筆跡が見られるが、その中に、仙台覚範寺蔵の虎哉和尚真筆の筆跡に似たものが見られる。

これらの結果から、本報告書は、A地点を伊達輝宗、B地点を遠藤基信(医国院)、D地点・E地点を須田伯耆(撑月菴)・内馬場右衛門(保福菴)の牌所ではないかと推測している。
この推論を採用するならば、B地点に墓壙が検出され、A地点にも礎石抜き取り痕があることから、性山公治家記録に遠藤基信を「覚範寺殿御廟の側に葬る」とあるのは、資福寺ではなく覚範寺を差すという解釈も可能であろう。

(となると、夏刈資福寺の、「儀山政宗夫妻の五輪塔」も、塔の数だけで言えば、儀山政宗夫妻でなく、須田伯耆・内馬場右衛門と考えても不自由ないような……。まぁ、いずれも「伝」だし……。)

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