さて、畠山義継と伊達家の和睦交渉にあたって、輝宗・政宗父子と義継の間に立ったと見られるのが、伊達実元・成実父子である。
伊達家の南境・大森領を擁するこの父子は、本城の大森に政宗同様家督をついだばかりの成実が、さらに南の境目の城・八丁目に隠居した父・実元が拠っていた。
大森領は畠山義継の二本松領と直に接する。伊達側の境目の城が八丁目、畠山側の境目の城が渋川である。かつて、八丁目城は畠山側の城であったが、天正二年に伊達実元がこれを奪取し、この際の和睦条件として、畠山義継は相馬戦にあたる伊達勢に50騎の合力を出した。
爾来、伊達実元は畠山義継の指南・取次をしていたものとみられる。(戦国史研究65号 「伊達領国の展開と伊達実元・成実父子」 佐藤貴浩 2013)
なお、実元と義継の交渉は、伊達家治家記録ではこの八丁目攻略が最初であるが、実元が大森を拠点としたのは天文年間に遡り、天文の乱中から仙道諸侯との交渉は始まっていたはずである。
粟の巣の変の発端となった和睦交渉についても、畠山義継がまず頼ったのは、指南たる伊達実元であった。
政宗公小浜城へ御馬を移され候ところ、二本松義継より我等親実元へ仰せられ候は
「代々伊達を頼み入り身上あい立て候えども、近年会津・佐竹・岩城、田村へ御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨みの儀候て、会津・佐竹御味方をつかまつりたく候。御同城いたし、後々の御首尾まで輝宗公をもって 相馬へ御弓矢の時は、両度御陣へ参り候て、御奉公つかまつり候あいだ、身上別儀無くあい立てられ下さるように」
とお頼み候について、親実元右のとおり輝宗公へ申し上げ候
(成実記)
畠山側の担当者は、境目・渋川の城主、遊佐下総であったことも伺われる。
この実元は義継御懇意にて、絶えず双方より御音信あり。義継の御内、遊佐下総は兵部大輔(実元)かねて御懇ろなりとて、たびたび使いに遣わされ候なり。
(山口道斎物語)
この遊佐下総は後に二本松城籠城戦の中、伊達に返り忠をした5人のうちの1人となる。前にも挙げた新城真庵の言、
「御譜代の大身小身ともに伊達へ心を通じ申すと風聞つかまつり候」
(山口道斎物語)
は現実のものとなった。
さておき、この天正13年秋の粟の巣の変前段では、畠山義継-遊佐下総-(実元家臣)-実元-輝宗というルートで当初交渉がはじまったといえよう。
この時点での各大名の関係を整理しておく。
天正2年の講和以後10年間、伊達-畠山の関係は安定していたが、上のように、畠山-田村の関係悪化が状況の変化を生んでいた。
なお、経緯は省略するが、田村と大内は敵対関係にあり、大内定綱の三春領攻撃に手を焼いた田村清顕の大内退治要請が、伊達-大内手切れの一因となっている。
伊達-畠山は直接の手切れに至る前に、畠山義継からの講和交渉があったわけだが、塩松領攻略戦で伊達勢と戦闘した大内勢の先手を畠山勢が務めていたことから、これを実質的な手切れとみなすのが、伊達側の見せた基本的な姿勢であった。
今度大内と一味にて小手森にても先手をいたされ、ヲウハノ内へも勢を込め候て合戦に及び候。在方大内同然の敵に候間、御勝負仕らるべきよし仰せ
(伊達日記)今度大内備前御退治のみぎり、小手森両口の合戦において、一口は義継先手にて候。大場の内へ御働きのみぎりも、二本松篭人数を出し端合戦のあいだ、大内同然の敵と思し召し候条、二本松へ御働きなさるべきよし仰せ
(成実記)
冒頭に記したように、畠山義継の二本松領と接するのは、伊達実元・成実父子の大森領である。
ところで、大内に援軍を送っていたのは、畠山義継だけではなかった。畠山・大内が頼る会津芦名、およびその影響下にある仙道の諸将が、大内に援軍を送っていた。畠山-大内は対田村連合であることから田村領は通れず、彼らは二本松領を通過して(=畠山義継の全面的協力のもと)、塩松領に入っている。
その様な状況にもかかわらず、伊達実元は、大森領と二本松領の間を静穏に保ち、手切れをしようとはしなかった。
かように塩松は御弓矢に候えども、八丁目に我等親おり申し候ところ、二本松境は事切れこれなく候。
(成実記)
実元の考えは、成実によるとこうである。
二六時中心に絶ず彼境を静めける底意を如何にと申すに、会津・仙道より四本の松へ加勢のときも、田村は敵地なれば、二本松を往行す、故に実元、義継へ近付此境を静なば、佐竹・会津・仙道・岩城、今は、二本松へ一味たりと雖も、敵の実元に和睦の上、境目迄も無事なりとて、後には右の四大将義継へ疑心有べし
(政宗記)
伊達-大内間が手切れしているにも関わらず、実元-義継の関係、すなわち伊達-畠山の関係が破綻しなければ、大内-畠山が頼る会津芦名ほか仙道諸将は、義継に疑いの目を向けるだろう、というのだ。芦名を頼れなくなると義継は伊達を頼らざるをえない。
実元はそう考えて境界を鎮め、輝宗・政宗父子にも話を通していた。
もっとも、成実が実元のこの考えを知ったのは、事後である。
成実自身は手切れを行って二本松を攻めようと考えていた。これまで二本松取次を担当していた大森の当主(この時点では成実)が、手切れを進言すればそれは大きな重みを持つ。実元はこれを阻止するために、二度も成実から誓紙を取るが、自分自身の考えは成実には明かさなかった。
政宗公へは申し上げられ候えども、我等若輩に候あいだ、聞かせ申されず候。この境事切れ候はば、いや煩い強くなるべく候あいだ、申し上げ事切れつかまつるまじく候我等に両度まで誓紙をいたされ、八丁目・二本松境無事につかまつられ候。
(成実記)
すなわち、輝宗・政宗は実元の考えと行動を容認した上で、実際の講和交渉にあたっては、小手森他での大内援軍としての畠山勢との交戦を理由に「二本松へ御働」く姿勢を見せ、畠山義継に圧力をかけたことになる。
しかも小手森では、実際に成実の大森勢と二本松勢は交戦している。
輝宗・政宗と実元は、取次役という大森伊達家の地位を利用して、たくみな二重外交を行ない、畠山義継を追いこもうとしたのである。
さて、本項では粟の巣の変について冒頭に記した史料を読み比べているわけだが、畠山義継と伊達家の交渉ルート=「手筋」について、ここに興味深い伝承があるので紹介する。
内室は輝宗に由緒これあるにつき、和談を入れ候て、義継輝宗父子の御手につき出仕
御礼、申すべき旨、内々より申し入られ候えども、政宗承引これなきにつき、内室よ
りさまざま輝宗へ申し入れられ候て、対面仕られ候儀、相調え申し候。
(元和8年老人覚書・塩松小浜村)
二本松義継は伊達輝宗父子と初めは入魂、その上内室は輝宗へ由緒これあるにつき、
輝宗相馬への出陣の時、二本松より馬上50騎・鉄砲100挺加勢遣わし申され候。
(元和8年老人覚書・二本松之老人)
義継の内室は、一般には畠山一門の新城直継の娘とされている(Wikipedia)。
しかし「元和8年老人覚書」では、「内室は輝宗に由緒これある」と述べる。輝宗の縁者だというのだ。
女性が外交ルートの一端を担うのは保春院(伊達輝宗室)の例にも見られる。 保春院の外交上の働きについては、「戦国期奥羽における保春院のはたらき――戦国時代の平和維持と女性」(遠藤ゆり子 日本史研究 (486) 2003.2)に詳しいので参照されたい。
義継内室が輝宗の縁者であるというのが本当だとすれば、契機としては天正2年の八丁目攻略及びその後の講和が考えられようが、天正2年一年間の出来事を記した「伊達輝宗日記」には該当する記述は見当たらない。
一方、「山口道斎物語」には、二本松籠城中に、「具足を召され、白き衣にて鉢巻なされ、御髪を散らし、長刀を脇ばさみ」、酒をふるまって重臣たちを励まし、女中たちを指揮して鉄砲の玉を鋳る「畠山の御後室」の姿が描かれる。二本松城明渡の際しては、会津へ引き退いたとされる。
ただ、畠山義継と伊達領内、とりわけ大森領との関わりは、後述する寺院関係の伝承に垣間見られ、伊達家の正史から消えたなんらかの由緒・関係があったと推測するのに難くはない。
この項では、畠山義継と伊達領内、とりわけ大森領との関わりを示唆する寺院関係の伝承を紹介する。
二本松畠山家の菩提寺に、時宗の二松山称念寺がある。「山口道斎物語」は軍記部分の「乾」巻と、称念寺を中心に記述する「坤」巻があるが、そこから、大森と称念寺について書かれた箇所を抜粋する。
天正12年甲申年畠山因幡守義継伊達正宗と合戦にて討死、其の乱によりて、時の住僧、畠山の位牌、其のほか什宝ともに、信夫領大森という所に引越し、草庵を結び、名付けて大森称念寺という。
(山口道斎物語 坤 二本松称念寺縁記)天正年中二本松落城のみぎり、称念寺の住侶、敵の襲来を恐れ、拷件の御影および勅額縁起流寓。信夫郡大森彼の地の領主、憐れんで内町というところにおいて、僅かの田畑を寄付し、畠山の祀を絶やしめず、称念寺移建。(中略)その後世移り大森の称念寺また頽廃し、称念寺の住持、拷御影堂および什宝福島柳町宝林寺に移転す。
(山口道斎物語 坤 二本松称念寺縁記)
後段の宝林寺の件は「信達一統志」にも見える。
行樹山寶林寺 時宗
当寺に二本松先城主畠山修理大夫義継の位牌あり。其故は義継二本松退去の後、信夫郡大森村に於いて一寺を建立し正念寺と称す。後世絶てなし(中略)今世其田徳を当寺へ送り畠山氏の霊をまつるとあり
(信達一統志 福島邨)
「山口道斎物語 坤 信夫郡大森村へ称念寺を移す事」には畠山義継の葬送についてこう記す。
義継生害の時に早速伊達勢二本松を囲み対陣の故に、称念寺において義継の葬送かなわずして、川俣の頭陀寺の和尚より小浜にありし義継の遺骸を乞て、頭陀寺において葬送なり。これより以来参州の二本松家は時宗を改め曹洞宗のよし。
(山口道斎物語 坤 信夫郡大森村へ称念寺を移す事)
川俣の鶏足山頭陀寺(川俣町飯坂字頭陀寺2)は、川俣町のホームページによると、
鶏足山頭陀寺は宝徳元年(1449年)九州熊本の人、栽松青牛和尚によって開山された禅堂で、当時は米沢市在小桑にある曹洞宗総持寺系端竜院の末寺であった。2世より12世にわたる布教活動により北は保原、東は草野、西は立子山まで、末寺17か寺を持ち福島市平田の陽林寺と対じするものであった。当寺は再三の火災によって昔の面影を偲ぶことはできないが、開基の檀那として伊達稙宗の名が大きく残っている。
(http://www.town.kawamata.lg.jp/soshiki/9/bunkazai-zudaji.html )
とある。
もう一つ、大森領と畠山義継を結びつける伝説を記した記事が「信達一統志」にある。
畠山義次二本松没落の後大森邨に住給へしと云説あれど、名倉義次の諱と畠山義次の諱と符合せり。畠山をかわして名倉と云へしものに哉
(信達一統志 須川南杉妻荘 佐原邨 宝球山慈徳寺 大悲堂の項)
名倉義次、あるいは名倉守義次は、大悲堂を建立した「信夫の先祖慈徳寺殿」の三代目で、大悲堂の修復工事を行った、と同じ項にある。名倉義次については、「信達一統志」の筆者自身が「名倉守という官名聞かずいかなる人かその姓名定かならず」と記し、畠山義継への比定を想起しながらも疑問形で記しているように、牽強付会の感をまぬがれない。(なお、「信達一統志」目録によれば、名倉荘は信夫郡の中にあり、大森も名倉荘に属する)
「畠山義次二本松没落の後大森邨に住給へしと云説」は、称念寺の大森移建の変形であろう。
佐原邨は「須川南」とあることから、広い意味での大森領内と思われ、また大悲堂のある慈徳寺は、植宗・実元の墓が現存する大森伊達家の菩提寺・小倉陽林寺の末寺で、伊達輝宗を荼毘にふした地である。
「信達一統志」は慈徳寺と伊達輝宗の関係に触れてはいないが、「畠山義次二本松没落の後大森邨に住給へしと云説」を想起し記したことは、不思議な因縁である。
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