伊達家の家紋として有名な「竹に雀」。これは成実の父・実元が、越後の上杉定実の養子と定まった際、「実」の一字とともに引き出物として[「竹に雀」の幕紋を賜ったもの。
もらったのは実元なのに、いつのまに伊達氏の紋に??? と思っていたら、晴宗が所望したので、実元が献上したらしい(武辺話聞書第110話)。時期は不明。ともあれ以後、伊達氏は幕紋に「三引両」と「竹に雀」を並べて使用することになる。(陣幕に用いる場合は、三引両を囲む丸は描かない)
また、この際、実元が「自分が自分が元々貰ったものであるから、自分の家では同色の紋を使う。ご本家は一部の色を変えられたがよろしかろう」と言ったので、伊達本家の「竹に雀」は雀の色が柿色になったとか(御紋之事吟味仕候覚)。
実元は天文の乱で植宗側につき、晴宗とは一時敵対していた。その実元が秘蔵していたのを晴宗が「所望」。実元は晴宗の娘を妻とする。このあたりに、なんだかすごく駆け引きがあるような気がして面白い。
実元がもらったのは「竹に雀」でも上杉家で使用されていたもののはず。それをあの派手な「仙台笹」にしたのは誰か?? そのあたりも興味深いところだ。
性山公治家記録の、輝宗が亘理元宗(涌谷伊達家祖)に「竹に雀」紋を許した記事が、伊達本家からの「竹雀紋」下賜の初めである。また、成実が宗家と同じ「竹に雀」紋を使用していたことを政宗に咎められているので、戦国末期までは両家の紋に異同はなかったようだ。このときは成実の「竹雀紋はもともと当家の門を宗家に差し上げたものである」との主張が容れられ、政宗が詫びて納まった。
また、関が原の折、伊達家は白石・福島で上杉家と合戦に至った。福島合戦の際、上杉家が伊達家の「竹に雀」が描かれた陣幕を奪っている。この陣幕について「政宗の陣のもの」とする説(武辺話聞書第109話)と、「成実の陣のもの」とするもの(老人伝聞記)がある。成実の帰参時であるから、成実が陣幕を用いていたとは考えづらい。よって「政宗の陣のもの」となろうが、この時点においても、伊達本家と伊達(成実)家は類似する紋を用いていたのであろう。逆に他の一門との混同がない点にも注目したい。
さてここで、「竹に雀紋」の意匠を検討してみる。武家においては上杉家との縁によって使用されているが、その共通の特徴は、「笹輪に二羽飛雀」である。葉の数、露の数、笹輪の節の有無、枝の有無、葉の数などは家や時代によって違いが現れる。
総じて政宗時代と確認できる美術資料の竹雀は竹に枝・露がなく、節より直接葉が出る。葉の数もかなり少ない。外に葉の出ないものも散見される。
大坂城天守閣蔵の黒田家伝来「大坂夏の陣図屏風」伊達隊の竹雀は内側に3×2の6枚のみ。
愛姫が夫の「実像に忠実に」作らせたという伊達政宗甲冑像(瑞巌寺) には草摺に「丸にしない横三つ引両」と「竹に雀」が見られる。 葉の数は内側に3×3の合計9枚
どうも政宗自身が使っていた竹雀には内側にしか葉がない可能性が高い。
「竹に雀」に枝が登場するのは、「伝伊達政宗所用水玉模様陣羽織」が初めである。上記陣羽織には江戸中期の作成とする説もあり、現行の「仙台笹」に近い意匠はこれを裏付けるものではある。
さて、亘理伊達家の「竹に雀紋(以下、亘理笹と記す)」が確認できる資料としては以下のものがある。
伊達開拓記念館所蔵の「伝伊達実元所用具足」には吹き返しに家紋があり「三引両」である。
伊達開拓記念館蔵の「伝伊達成実所用香車の陣羽織」には、完成形に近い形の亘理笹がある。
同じく「伝伊達成実所用具足(伊達市開拓記念館蔵)」には杏葉に「竹に雀」が見られ、笹輪の外側に葉と枝が見られるが、管理人の持っているパンフの写真では葉数・露数は確認できない。復刻されて悠里館にある具足には、杏葉と吹き返しに「竹に雀」が見られる。管理人の持っているパンフの写真では葉数・露数は確認できない。
伊達市大雄寺にも成実所用と伝える具足があり、胴に竹雀らしきレリーフがある(大雄寺パンフレット)。内側のみに葉があるタイプである。
亘理町大雄寺の廟にある成実木像は正徳5年(1715)作・文化6年(1809)修復であるが、この胴には「竹に雀」が描かれている。雀が痩せているあたりに古風が見られるが、一応「亘理笹」の完成形に近い形である。
と、すると笹輪の外側に葉を出すデザインは、具足と陣羽織の「伝」が正しければ、成実の始めたもの???
御家御紋御鑓御駕籠紋図より伊達安房家幕紋。仙台市博物館調査研究報告No.19により作成。外30内18。
他の参考資料>仙台藩陪臣亘理伊達家墓所の研究 風雲戦国史――戦国武将の家紋 仙台市博物館調査研究報告No.19 みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館 当サイト内「竹に雀紋 ギャラリー」
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