されば奥州の軍言ばに、草調儀或いは草を入る、或は草に臥、亦草を起す、扨早を捜すと云ふ有。先草調儀とは、我領より他領へ忍びに勢を遣はすこと、是草調儀といへり。扨其勢の多少に依て一の草・二の草・三の草とて、人数次第に引分に段々跡にひかへ、一の草には歩立計りを二三丁も先へ遣はし、敵居城の近所迄夜の内より忍ばせけるを草を入ると名付。其より能場所を見合隠居、草に臥と云ふ。尓して後夜明けなば内より往来に出ける者を一人成りとも、たとえば幾人にても敵地より出かゝりけるを、一の草にて討て取ること、是草を起といへり。正に敵地の者ども其ときに到りて知合、各武具立一の草を討て取んとす、扨草の者ども足並にて逃散けるを、我増次第に追かけゝれば、二三の草起し合、せり合と成て、討つ討れつ互に勝負を決す、亦我領へ草の入たるを知合ければ、内の人数を二手にも三手にも合、其勢を脇より遣はし、二三の草ひかへたる跡を押切、扨其兵儀を仕合、此方に残りたる人数を以て一の草より捜し、草の者ども起立、逃散ひかへたる二三の御方へ加はりけれども、跡先より押包攻ける程に、何かは可好草の勢とも後を取り、却て討るゝこともあり。たとはゞ昼にてもあれ、山際などの場所好ければ、草を入ること右の如く、尓りと雖ども昼なれば、草とは云はず昼這と云り。去程に同年の三月十三日に、成実領地玉ノ井へ敵地の高玉より、山際に付て西原と云処、玉ノ井四五里隔ちけるに、彼西原へ草入、玉ノ井よりの往来を討て取んと待掛けるを、玉ノ井の者ども知合、其草を兵儀なしに遠く追過ければ、高玉の者ども其を見請、重ねては押切を置討取んと、玉ノ井より高玉への山道に、矢沢と云ふ処へ同月二十二日の夜、亦草を入んと評定す。尓処に大内兄弟、右にも申す伊達へ忠節に極まり内通なれども、其砌は未だ向方の御方へ手切をせざるに、今亦高玉へ加らざれば、伊達へ一味と現はれ、会津へ聞へんこと流石大事に思ひ、是非なくして助右衛門領地片平と、阿久ケ島の人数も高玉へこそ加はりけれ。同二十三日に今夜玉ノ井へ草入けると敵地の内より成実領知本宮へ告ける程に、二十三日の朝、本宮・玉ノ井ニケ所の者にて、成実も自身出て捜しければ、一人参らず偽りなりとて引込ければ、其日の昼這に、玉ノ井の近所へ二三十人出来り、御方の者ども出合取結ばんとしけれども、引上げるを追掛、台輪田と云処へ追詰せり合となる、かゝりけるに、御方追退けるを見合、討取べきエみにて、右の矢沢に小山のありける其陰に三百余人隠し置き押切に擬作せり合始まる処より、引掛べしと思ひ、そろくと除口になるを、玉ノ井の者ども跡の草を評議なしに追過たる故、引掛けるとは夢にも思はず、敵の足跡悪くなると心得競ひかゝりければ、敵尚も崩れかかりて足並を出しけるに、押切の敵も是を待兼早く出ける程に、押切られはせざれども御方崩れかゝり、川迄押付られ、三四人討れけるに、川にて立合守返ければ、敵の大将高玉太郎右衛門、味方の境を乗分、小川を隔て横向に乗通りけるを、成実歩立志賀山三郎、川柳へ鉄砲を掛待かけけるが、寸斗切て放ちければ、名誉上手では有、一つの玉は太郎右衛門腰に当る。今一つ馬の肩のねり合に中つて乗たりける馬を屏風返しに打返され、敵除口にて足跡悪く成けるを、太田主膳といふ大剛の武者、殿をして引上げる故、未だ崩れざる処に、主膳小坂に乗上けるを、亦山三郎上矢に打って放ちければ、鞍の跡輪を打かき二つ丸にて、イノコへ打出され、主膳うつむきに成て、自身に差たりける小旗を抜、痛手を負て候。我等爰を引除なば、必崩れ候べし、汝主膳に成かはり、殿をして引取べしとて、其差物を弟の采女に差せ、其場を引除相乗けるは、哀れ剛の兵なる哉と、時の人々感じけり。惣して此の草ほ、主膳・太郎右衛門発起を以て、入れたる草なり。尓かるに両人ともに、右の如き仕合なれば、惣じての人数も崩れける故、追討に頸五十三討て取けり、雪崩をつきたるせり合なれば、多勢も打取へけれども、山陰の悪所にて散々に逃げる程に纔の体なり、敵某夜は宿所へも帰らざる者多かりけりと後に聞へ侯事。尓して頸ども鼻をそぎ米沢へ差上見せ奉り候事。
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