大内備前手切の事

かゝりける処に、仙道安積の郡、太田・荒井・苗代田とて、二本松より隔りけれども、二本松の領分なり。故に義継生害の一乱にも、三ケ所の民ども迄、方々逃散しあき地となる。尓して後政宗二本松を手に入給ひ、成実拝領の後右之三ケ所へ、地下人どもを有付けれども、亦高玉・阿久ケ島といふ此二ケ所は敵地にて、苗代田に近かりければ、召返しける百姓ども用心のため、古城に集り居て耕作を致しける。尓るに天正十六年戊子の二月十二日の丑の刻計りに、片平、阿久ケ島・高玉ニケ所の人数を催し、大内備前、成実領分苗代田へ押掛、寄居の地下人共を百余人討果し、あまつさへ物頭に指置ける本内主水と云ふ者迄生害して、悉く烽火せしめ再乱なり。是に付て太田・荒井は、地下人も本の所に有かね、私領玉井と云ふ処へ引込けり。同如月の末大内、成実処へ、去年御手前を頼入、伊達へ拵へのことケングウいたし已に身命に及ぶべきこと、迷惑の儘会津へ申分べく、命乞に御領地へ態と手切を成けるなり。爰を聞分け右よりの御首尾に、何ことをも免し給ひて、米沢へ身代頼入由度々訴訟に及ぶ。尓りと雖ども、一度の申合を今亦翻し、私領へ押寄本内主水迄生害なるは、前代未聞の手切なり、成実馳走申すことは思ひも寄ず余人を以て拵へ玉へと、数度懇望なれども承引せず。尓るに大内方より成実処へ拵ひける使者、主水親類にて成実私領玉ノ井に居けるが、彼者は云ふに及ばず、惣じて主水親類共数多同所に差置けるに、其者ども、
「玉ノ井は敵地へ近く、境目なれば地下人迄も二本松譜代にて、縦ば他領へ草を入けるにも、敵地へ内通あるべきかと気遣の処に、今亦片平兄弟忠節申す程ならば、敵地の高玉・阿久ケ島も持兼、軈て御手に入るべきこと疑ひなし、去程に大内兄弟を御家へ取持こと、且は伊達の御ため、且は玉ノ井のためなり」
迚頻りの訴訟に付、第一伊達のためなる故、米沢へ其旨申しければ、政宗
「苗代田を討散口惜けれども、流石此方への忠をば、違へず、命乞のことなれば、是又僻こと成らず、助右衛門迄忠節ならば、備前をも召出し侯らはん、其旨心得べし」
と宣ふ。故に備前方へ申遣はし、助右衛門も忠に極り、片平近所の他郷共四五ケ所望んで遺しけるを指上ければ、首尾能相済、大内には保原を賜ふべしとて、書付共調へしてけるを、大内兄弟へ遣はしければ、助右衛門申けるは、
「瀬の上丹後名代を約束にて聟なり、尓るに中野常陸一乱に付、彼丹後いまだ勘気を蒙り迚も是を御赦免ならば、尚も有難く侯べし」
と申す。其品申しければ、
「常陸ことは親類迄もロ惜しきに、丹後は孫なり中々免すまじき」
と宣ふ。助右衛門
「御十分の到なり、尓りと難ども亦私に罷成ては一度名代に相定めける。其子の身代改易なるに、某一人罷出、四方の恨偏に逃れ難し、全く不忠はあらざれども、戴き奉る御判形も差上申すの外、他事なく」
と申す義を政宗聞給ひ、
「やさしうも申したるもの哉、武士の心操奇特」
の由宣ひ、丹後をもゆるし給へり。是に依て備前兄弟此方へ参るを、片倉景綱、成実居城二本松へ出向、待候らはんと成実に申し合せ候事かゝりける処に、仙道安積の郡、太田・荒井・苗代田とて、二本松より隔りけれども、二本松の領分なり。故に義継生害の一乱にも、三ケ所の民ども迄、方々逃散しあき地となる。尓して後政宗二本松を手に入給ひ、成実拝領の後右之三ケ所へ、地下人どもを有付けれども、亦高玉・阿久ケ島といふ此二ケ所は敵地にて、苗代田に近かりければ、召返しける百姓ども用心のため、古城に集り居て耕作を致しける。尓るに天正十六年戊子の二月十二日の丑の刻計りに、片平、阿久ケ島・高玉ニケ所の人数を催し、大内備前、成実領分苗代田へ押掛、寄居の地下人共を百余人討果し、あまつさへ物頭に指置ける本内主水と云ふ者迄生害して、悉く烽火せしめ再乱なり。是に付て太田・荒井は、地下人も本の所に有かね、私領玉井と云ふ処へ引込けり。同如月の末大内、成実処へ、去年御手前を頼入、伊達へ拵へのことケングウいたし已に身命に及ぶべきこと、迷惑の儘会津へ申分べく、命乞に御領地へ態と手切を成けるなり。爰を聞分け右よりの御首尾に、何ことをも免し給ひて、米沢へ身代頼入由度々訴訟に及ぶ。尓りと雖ども、一度の申合を今亦翻し、私領へ押寄本内主水迄生害なるは、前代未聞の手切なり、成実馳走申すことは思ひも寄ず余人を以て拵へ玉へと、数度懇望なれども承引せず。尓るに大内方より成実処へ拵ひける使者、主水親類にて成実私領玉ノ井に居けるが、彼者は云ふに及ばず、惣じて主水親類共数多同所に差置けるに、其者ども、
「玉ノ井は敵地へ近く、境目なれば地下人迄も二本松譜代にて、縦ば他領へ草を入けるにも、敵地へ内通あるべきかと気遣の処に、今亦片平兄弟忠節申す程ならば、敵地の高玉・阿久ケ島も持兼、軈て御手に入るべきこと疑ひなし、去程に大内兄弟を御家へ取持こと、且は伊達の御ため、且は玉ノ井のためなり」
迚頻りの訴訟に付、第一伊達のためなる故、米沢へ其旨申しければ、政宗
「苗代田を討散口惜けれども、流石此方への忠をば、違へず、命乞のことなれば、是又僻こと成らず、助右衛門迄忠節ならば、備前をも召出し侯らはん、其旨心得べし」
と宣ふ。故に備前方へ申遣はし、助右衛門も忠に極り、片平近所の他郷共四五ケ所望んで遺しけるを指上ければ、首尾能相済、大内には保原を賜ふべしとて、書付共調へしてけるを、大内兄弟へ遣はしければ、助右衛門申けるは、
「瀬の上丹後名代を約束にて聟なり、尓るに中野常陸一乱に付、彼丹後いまだ勘気を蒙り迚も是を御赦免ならば、尚も有難く侯べし」
と申す。其品申しければ、
「常陸ことは親類迄もロ惜しきに、丹後は孫なり中々免すまじき」
と宣ふ。助右衛門
「御十分の到なり、尓りと難ども亦私に罷成ては一度名代に相定めける。其子の身代改易なるに、某一人罷出、四方の恨偏に逃れ難し、全く不忠はあらざれども、戴き奉る御判形も差上申すの外、他事なく」
と申す義を政宗聞給ひ、
「やさしうも申したるもの哉、武士の心操奇特」
の由宣ひ、丹後をもゆるし給へり。是に依て備前兄弟此方へ参るを、片倉景綱、成実居城二本松へ出向、待候らはんと成実に申し合せ候事

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