この角田接収事件が、伊達成実に関する出来事でもっとも誤解されているものであろう。
すなわち誤解とは、
「成実の出奔後、政宗は屋代景頼に命じて角田城を召上げるべく武装包囲した。留守を守っていた成実家臣は30余人が討ち死にし、成実の妻子もその際殺された」
と、いうものである。
この説を広めたのは大河ドラマ「独眼龍政宗」と飯田勝彦著「伊達政宗とその武将たち」であると思う。激しい合戦が角田城において繰り広げられ、生き残った家臣は散り散り。妻子を失い、天涯孤独の身の上となる成実……。涙を誘う名シーンである。(だからといって百姓をさせるのは大河の設定がやりすぎだと思うが(^^ゞ
明らかな誤りは、成実の妻子が殺された、という部分である。。
成実室の没した文禄4年6月は、成実出奔より以前であるので、角田接収の時期にはもうこの世の人ではない。
側室および側室腹の子どもはいた可能性は無いわけではないが、存在を立証できる史料は存在しない。
そして「留守を守っていた成実家臣の30余人が討ち死に」は「治家記録」や 「世臣家譜」に記載があるので誤りではない。しかしそこからイメージされる激しい城攻めは想像の産物である。
「世臣家譜」によると、主な抵抗者である羽田右馬助がこもったのは「私宅」。すなわち城下の羽田屋敷であって角田城そのものではない。
さらに当時の成実家中の人数であるが、後に亘理2万石時代の人数が約1500人。二本松時代は3万石余と「世臣家譜」はいうので、角田時代もこれより少ない、ということはなかろう。
すなわち、抵抗して討ち死にしたのは「30/1500」に過ぎないのである。なお、成実の家中のうち、青木氏・白根沢氏・石川氏などはこのときに伊達本家の臣となり、幕末に至っている。
「小競り合いはあったが、城は大過なく明渡された」あたりが実情ではないかと思われる。
なお、角田接収の経緯には別説も存在する。仙台志料「成実高野山に遁る」に紹介されている説だが、これによると、行われたのは「角田の接収」ではなく「羽田右馬助の誅罰」である。その理由は羽田が成実の出奔をそそのかしたことにあった。
その背景として、羽田の専横が角田の留守居の中でみられ、家臣同士の対立があったようである。羽田と並ぶ留守居役であった遠藤主計が、岩出山の屋代勘解由にこのことを通報、屋代は丸森の高野壱岐に命じて羽田を討たせた。
羽田の屋敷を包囲した軍勢の中には、成実家中の名がかなり見られる。あくまで「謀反人は羽田」との立場であった。羽田を討った後の成実家中、および角田城は、主の不在を理由に岩出山=伊達本家の指揮下に入ったと考えられる。すなわち、「角田城主・伊達成実の臣」から「伊達政宗の派遣せる角田城番」にその性質を変えたのである。
この時期に羽田右馬助が家中から孤立していた一方、成実の全幅の信頼を得ていたことを示す伝承は他にもある。
「蟻坂文書」に
金沢・内崎・沢尻・白根沢・石川以下相談申し候は
「成実公より羽田右馬助一人方へ密々の御状遣わされ、吾等どもは無きが如くになされ候条、無念に存じ候。このたび岩出山へ連判を以て申し上ぐべし」
曲内談申し候ところに、勘解由兵衛、人数召し連れ、角田へ押し寄せ候間、右の品々勘解由へ相達し候。
と、あるのがそれである。
角田城の接収時期についてははっきりした記録がない。
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