掲示板で野崎さんよりご指摘いただいた謎からいろいろ。
実元の越後入嗣の際、竹雀紋とともに上杉家から送られた、亘理伊達家の家宝「宇佐美長光」。今も伊達市開拓記念館に重要美術品として所蔵されている。
この刀は一般に「太刀」とされるが、記録をひも解いてゆくと「腰刀」がいつのまにか「太刀」に変わっている。
一ちやけきりのたち、一なかミつ、うさミのとのよりのかたな、一よしむねよりのかたな、もりいへとなつけ候、むもん、しやくとう、ちとり……(中略)……一うへすき殿よりのたち、きゝやうつくり、くにつな、一大くまひぜんのとのよりのたち……(以下略)
『氏名未詳覚書』は刀や具足類の目録である。目録に登場する人物名――宇佐美・長尾・中条・上杉・大くまひぜん・亘理・御代田伯耆・牧野修理亮・よしむね(懸田義宗?)などの名から、実元の上杉入嗣に関連があるものと考えられる。
実元が贈られたものかどうかの記載はないが、「長光、宇佐美の殿よりの刀」が記される。この目録では腰刀は「かたな」、太刀は「たち」と区別して書かれており、「長光、宇佐美の殿よりの刀」は腰刀である。
一方、「上杉殿よりの太刀、桔梗造り、国綱」とあり、上杉家から贈られた太刀は長光ではない。国綱は粟田口国綱か。
……真元様 上杉之御名代ニ相済、竹ニ雀之御幕紋、長光之御腰物、実之御一字、大楽殿与申御使者ニ而被遣候、……
寛永12年正月20日に書立、と本文にある。ここでは上杉家から贈られたものは「長光之御腰物」。「宇佐美」とは記載がない。「腰の物」は一には腰刀をさし、二には刀一般をさすので、太刀・刀どちらの解釈も可能である。
『氏名未詳覚書』の「上杉殿よりの太刀」と別個に贈られたものか、「長光 宇佐美の殿よりの刀」と混同されているのかは不明。
筆者は大有和尚とされるが、寛永12年には既に故人であるので、誰が書いたかは不明である。
……扨又大少は、はばき国行・来国光・宇佐美長光・二字国俊・……
寛永19年6月 伊達安房成実の奥書。ここで初めて「宇佐美長光」が登場する。大小は刀剣類の総称として書かれているようである。
奥書をそのまま信ずるならば、成実自身が「宇佐美長光」と表現していることになる。
但し、『政宗記』後半の逸話部分は別人の加筆があるとの説もある。
先祖実元儀、上杉貞実公御苗跡に相済み御約諾なり、竹に雀幕の紋・宇佐美長光御腰の物、「実」の一字、そのほかいろいろ指し遣わされ、……
「亘理訴状」は天和2年(1682)。詳細は当サイト「亘理訴状による伊達実元の功績」参照。「腰の物」については上に同じ。
○天文十一年壬寅六月。自越後令直江大楽両使。来迎公子五郎殿。贈以重代腰刀宇佐美長光竹雀幕。且贈実一字。約為上杉兵庫頭定実養子。因以六月二十三日定発遣。然二十日不意内乱起。終不果。
「伊達正統世次考」は元禄年間の編纂。ここでは「宇佐美長光は上杉家の重代であり、腰刀」である。
○(天正十五年四月)十六日乙亥 従五位下兵部大輔藤原実元入道栖安斉、奥州信夫郡八丁目城ニ於テ卒セラル。年六十一。法名雄山英豪独照院ト号ス。…天文十一年越後国上杉兵庫頭藤原定実家督ニ約セラル。定実ハ稙宗君ノ外祖父ナリ。定実ヨリ諱実ノ一字、累代ノ太刀宇佐美長光、家ノ紋竹ニ雀等ヲ贈ラル。
「伊達治家記録」は元禄年間の編纂。「伊達正統世次考」と同時期の編纂であるがここでは「宇佐美長光は上杉家の重代であり、太刀」である。
外祖父上杉兵庫頭貞実、約養以為嗣、贈太刀(宇佐美長光)、一口竹雀紋幕……(中略)……
於是成実献佩刀(宇佐美長光)、以謝恩……(以下略)
「伊達世臣家譜」は宗村・重村代の編纂。明和年間までを記す。
成実が亘理拝領時に政宗に献上した佩刀を「宇佐美長光」とする。
「佩刀」とあるので「宇佐美長光の太刀」となる。
宇佐美重代の備前長光の太刀を定実に進上。此太刀大わさ物、殊に大剛宇佐美所持なれは定実悦ひ無限。則異名を宇佐美長光と云て秘蔵有し也。其後越後乱治り、然るに上杉定実女子有れ共男子なくて、聟伊達植宗次男伊達兵部とて十六歳に成を、定実孫と云又其生付賢き由聞伝、奥州へ申遣し、彼兵部を定実養子に定る。其砌定実より名乗の一字并宇佐美長光の太刀竹に雀の幕を贈り祝儀を表す。
「武辺話聞書」は江戸時代前期の武辺話モノ。巷間に流布した武辺話の聞き書きである。
同じく111話に、宇佐美長光の謂れが記載される。
「宇佐美長光」は上杉25将の武勇の人「宇佐美定行」の佩刀であったという。
※宇佐美定行は架空の人物 17世紀紀州の軍学者・宇佐美定祐の創作。
東京国立博物館に、江戸末期成立の「御宝物之部仙台家御腰物之帳」写しがあり、デジタルライブラリーで閲覧できる。
江戸末期の仙台伊達家が所蔵する刀剣類の目録である。
守家左右巻御太刀→備前景秀→亘理来国光→鎺国行ときて、次に宇佐美長光が記され、忠山宗村のお国入りに際して獅山吉村から譲られるなど、仙台伊達家に移ったあとも大切に扱われたことがうかがえる。
一 宇佐美長光
元禄三年八月三日 金二十枚
銘有長二尺四寸五分
義山様御指 或は伝 貞山様御指今不詳
御由緒帳云延享元年四月五日 忠山様御家督
始与御入国為御形義従 獅山様被進云々
右長光御刀ハ元上杉家之刀也第十四世
稙宗様之御子伊達兵部太輔殿実元江上杉定実より
竹荏紋実ノ一字宇佐美長光之刀被所贈之
御記録ニ有
但右御刀 忠山様江仰出伊達安房村実殿■
誰様御代被■上弐与被為■■■■共竹荏御紋ハ
実元代 第十五世 晴宗様江差上宇佐美
長光御刀ハ安房宗実より
義山様江被差上候由被申遣候
右条々付壱通并別紙なり
富塚隆義宇佐美長光太刀伝云
宇佐美駿河守定行五代之祖宇佐美左衛門尉
政豊事ハ寛正三年畠山右馬義就が籠たる
河内国金胎寺城を諸国の軍勢をして攻る
公方慈照院義政公より政豊先陣を蒐て
高名有けれハ備前長光の御太刀を被下
代々相伝て上杉定実に進上す定実賞翫
して宇佐美長光と号し後に定実の
外孫伊達兵部少輔実元に譲る実元其子
成実に譲る成実 中納言政宗公に献じ今に
至り仙台家の什物其一なり
謹で按るに富塚隆義■記の説宇佐美長光
御刀伊達成実 貞山公江献せらると伝て
安房殿家跡に安房宗実 義山公江ささげ
らるとあり正説未勘※デジタルライブラリーのを見てがんばって読みましたが、間違いありましたらお教えください……
現在、伊達市開拓記念館に亘理伊達家の家宝「宇佐美長光の太刀」が収蔵されている。昭和15年に国の重要美術品指定をうけており、「宇佐美長光作」とされる。この「宇佐美長光」は太刀である。
明治25年に二振りの刀を仙台伊達伯爵家に献上し、以前に献上してあった(伊達世臣家譜によれば亘理拝領時)宇佐美長光の返還を受けた、とある(伊達家関係資料目録756・15-1「御目録副書」注記)。
「長光」は備前長船派の刀工であり、「宇佐美長光」という刀工は存在しない。
『宇佐美長光』
仙台市博物館「伊達政宗と家臣たち」p21 図50より
宇佐美氏は越後国人であるから、「宇佐美長光」という通称は「宇佐美氏ゆかりの長光」と解するのが自然である。
太刀を打刀の拵えにして使用したり、磨り上げて腰刀とすることもある。「氏名未詳覚書」の「長光、宇佐美の殿よりの刀」は、この時点での拵え・取り扱いが「刀」であったということであろう。
『氏名未詳覚書』の「長光、宇佐美の殿よりの刀」と「上杉殿よりの太刀 国綱」。
資料の記載を並べてみると、この二つが次第に混同されていったかのように見える。
「長光」はよく知られた刀工であり、伝来品も多いことから、この覚書の他に「上杉家から伝わった長光」があったのやもしれぬし、それが『伊達稙宗同晴宗子女書立』 のいう「長光之御腰物」かもしれぬ。
亘理伊達家では、実元が越後守護上杉家の嗣であったことと、成実の武勇は家を支える根幹であった。
上杉家から「太刀」が贈られたこと、宇佐美家伝来の「長光」が贈られたこと。越後国人宇佐美定行の武勇伝説。
これらが結びついた「宇佐美長光の太刀」は「越後守護上杉家との縁」「成実の武勇」のシンボルとして相ふさわしく、亘理伊達家の精神的支柱として機能したのであろう。
そして「長光」と銘のある太刀一振りが明治期に、仙台の伊達伯爵家(仙台伊達家)から有珠の伊達男爵家(亘理伊達家)に、「宇佐美長光」として返還されたのである。
そして明治期、宇佐美長光は新天地を北海道に求めた有珠の伊達男爵家(亘理伊達家)に、仙台の伊達伯爵家(仙台伊達家)から返還されたのである。
しょっぱなから言い訳になりますが、私、日本刀に関してはまったく無知です。
上杉家から伊達家へ贈られた当時の価値観で、「長光」と「国綱」どっちが高級品だったかは気になるところですがわかりません。(狂言「長光」と「粟田口」を比べますと、国綱の方が高級品のような気もします)
成実が「亘理拝領時に宇佐美長光を献上した」件ですが、これは『世臣家譜』以外(というか以前)の資料では確認しておりません。
当時は何かといえば御挨拶の御礼のと太刀を献上しているので、亘理拝領時に太刀を献上するのはごく自然なことと思いますし、このとき以外にも献上しているはずです。
これら成実から政宗に献上された太刀の中の一振りに「長光」があったとしたら……(ひょっとしたら複数あるかも)。仙台伊達家が刀剣類を整理する時に、「成実から政宗に献上した長光」があれば、それを「宇佐美長光」と判断したであろうことは容易に想像できますし、
明治期に亘理伊達家から「成実献上の宇佐美長光」の照会があれば、その一振りが選ばれるでしょう。
仙台伊達家・亘理伊達家所持の刀剣類の目録はいくつか現存しているようですが、読んでません。みみず文字が読めないので、マイクロがあるかどうかの照会もしてないです^^;
下にリストをあげますので、ご存知の方はご教示いただけますと幸いです。
さて、政宗には「振分髪正宗」の逸話があります。「正宗」の刀を捏造しちゃったわけです。今でも日本刀は贋作・偽作・写が多いものです。
百姓のウチの家にも羽振りが良かったころに購入したらしい刀が数本ありますが、銘に刻まれた名だけは立派です。
政宗の時代にも鑑定家がいましたから、逆にいえば鑑定家が成り立つほど真贋入り乱れていた、ということになるでしょう。
現存する「宇佐美長光」が本当に上杉家から来たものなのか、あるいは本当に「長光」なのか、そういった詮索は本来野暮なことで、大事なのことは亘理伊達家における「宇佐美長光」が実元・成実に始まる家の象徴であり、今なおその機能を持ち続けているということです。私の関心は「長光」が本物かどうか、現存物と由緒に矛盾がないか、由緒が真実かどうかよりも、由緒の成立過程に興味があります。
※上記記事中の打ち消し線は、2021年12月、本文に東京国立博物館所蔵 「御宝物之部仙台家御腰物之帳」に関する記載を追加したことにともなう修正によるものです。
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