会津へは御事切に候えども、二本松境は手切もこれなし。八丁目に私親実元隠居つかまつり候ところへ、二本松義継より細々使いを預かり御懇ろに申す。その子細は会津・佐竹は御味方につかまつり候えども、もともとより二本松・塩松は、田村へも会津へも、佐竹へも、弓矢の募り候ところへ、頼み入り身を持たれ候身上に候間、このたびも伊達募り候はば、我ら親を頼み伊達へ御奉公申すべきよし、義継思し召し御懇切候ゆえ、境目事切これなく候条。我らことは8日に大森をまかり立ち、9日に直々政宗公御陣屋へ参り伺候いたし候ところに、御意には
「二本松境如何」
と御尋ね候。
「まずもって静かにござ候。義継も大事に思し召し候や。打ち絶えず親ところへ遊佐下総と申す者、我ら親久しき懇切に候間、かの者を使いに預かり、また飛脚とも預かり候。かの境は御心次第に事切つかまつる」
べきよし申し上げ候えば、御前の人を相払われ、会津へ事切の段々、原田左馬助合戦に負け候様子残りなく仰せ聞かされ、会津に御奉公の衆これなく候て、いずかたも大切所に候間、なさるべき様これなく候間、御人数相返され定めて昨日人数に会い申すべき御意候て、
「二本松境はまずしずめ申すべく候。両口の事切は如何」
のよし御意に候。我ら申し上げ候は
「会津に御奉公の衆ござなく候とも、猪苗代弾正をからくり見申す」
べきよし申し上げ候えば、
「手筋も候や」
と仰せられ候間、
「羽田右馬助と申す者、猪苗代家老に石部下総と申す者へ、筋ござ候て別して懇切にござ候。このたび召し連れ伺候つかまつり候」
よし申し候へば、即右馬助召し出され
「猪苗代にその身好誼これあり」
のよし、聞き召され候間
「状を相調え申し越すべし」
よし仰せつけられ候条。御前において状をしたため申し候。我ら・片倉小十郎・七宮伯耆、状をも相添え申すべきよし仰せつけられ候よしの間、いずれも状を出し申し候。この状は檜原より猪苗代へは30里候間、これより遣わさるべき候返事は大森へ差し越されるべく候間、早々まかり帰るべきよし御意なされ候。拙者申し上げ候は
「今日は人馬もくたびれ日も早や詰まり候間、明日まかり帰りたし」
よし申し上げ候えば、二本松境を御心もとなく思し召され候間、こなたに居り候て御用無く候間、一刻も急ぎまかり帰るべき候よし御意に候条。檜原を日帰りにいたしまかり帰り候。この七宮伯耆は、久しき会津牢人にて、普段御相伴をつかまつり御※衆に候を、会津衆いずれも存じ候ゆえ差し添えられ候。さ候えば4-5日過ぎ候て、檜原より御使として嶺式部・七宮伯耆、大森へ差し越され、猪苗代よりの状は、おひらきなされ候ば合点にて御大慶に候。そなたこの口に居り申し候間、その口よりからくり申すべきよしにて、両人遣わされ候。人の存ぜぬところに、宿を申しつけ差し置き、もと猪苗代よりまかり出候、三蔵軒と申す者出家を使いに申しつけ、出湯通を越し申し候。書状の文言は
「檜原より進じ候御返答、披見申し候。政宗へ御奉公申すべきよし満足つかまつり候。この上は望みの儀も候はば承るべく候。政宗判形を進ずべく候」
よしを申すにつき、弾正望みの書付を越し申され候。
「一 北方半分知行に下さるべく候
一 我ら以後に御奉公申される衆には、会津において仕置きのごとく座上に差し置かれ下さるべく候
一 御弓矢思し召すようにこれなく、猪苗代を引きのき候はば、伊達のうちにて300貫堪忍分を下さるべき事」
右3カ条のほか望みもござなく候よし、書状にあいしたため、差し越し申され候につき、式部・伯耆は大森に逗留いたし、書付ばかり檜はらへ上げ申し候。政宗公御覧なされ、書付の通り少しも御相違あるまじきと、弾正書付をば御前に差し置かれ、引きのき候分の堪忍分、早く御書付を下されるよしにて、刈田・柴田のうちのところを指しなされ、300貫文御書き立て御判差し添え遣わされ候。式部・伯耆は御書付を我らに渡し、すなわち檜原へまかり帰り候。また三蔵軒に御判を持たせ、猪苗代へ差し越し申し候。2-3日過ぎまかり帰り候。
「御判形あい渡し申し候。さりながら息子盛胤、会津御奉公ぜひつかまつるべきよし申し候につき、これをいかようにも催促申し候て、事切つかまつるべき」
よし申し越され候。一両日過ぎ候て、三蔵軒を遣わし
「早々事切と申し候ように」
と申し候えども、盛胤一円合点申されず、家中2つに分りむずかしくなり候よし申し候間、事切れまかりならず候。会津の口の御弓矢なられず候て、檜原に新地御築き、後藤孫兵衛差し置かれ御入馬なられ候